Category: Essay

タフでありたい

以前、レーのノルブリンカ・ゲストハウスに泊まった日本人の方がメールで教えてくれたのだが、その人がデチェンに僕はどんな人間なのかと訊いたところ、デチェンは「タカ? タカはね、なかなかタフだよ」と答えたのだという。僕にとって、それはある意味、最上級の褒め言葉だ。実際、自分はタフかと問われたら、そうでもない、と答えると思うけど。

何かを誰かと競い合って、それを勝ち取りたい、周囲よりも優れた存在でいたい、とは、正直まったく思わないし、興味も湧かない。ただ、願わくば、タフでありたい、とは思う。ここで言うタフネスとは、単なる身体の強さというより、「人が人として生き抜くための強さ」だと僕は思う。生活をきちんと自己管理できる几帳面さ。面倒な作業でも粘り強く続けられる集中力。そのへんにあるものでささっと料理ができる腕前とか、何気ない会話で人の心を解きほぐせる気遣いとか、それから……。人としてまっとうに生き抜くために必要なことは、日々の暮らしの中に、本当にたくさん潜んでいる。

だから僕は、タフでありたい。今よりもタフになれたら、他の人に対しても、もっと何かをできる余力が生まれるかもしれないから。

生き方を自分で選ぶということ

年末年始に実家方面の人間たちと会った時、何かと話題に上っていたのは、春から高3になる姪っ子の進路についての話だった。

岡山で中高一貫の進学校に在学している姪っ子は、周囲の優秀な子たちと相対的に比べられることもあって、学内での成績はあまり良くはないそうだ。本人の勉強に対するモチベーションも、あまり高そうには見えない。将来、具体的に何かやりたいことがあるというわけでもなさそうだ。

母親(=僕の妹)をはじめ、周囲の大人たちは、半ば腫れ物に触るようなおっかなびっくりさで、それでも姪っ子の進路を案じている。その気持もわからないではないけれど、僕個人は正直、彼女がどこの大学に行こうが、何の職業に就こうが、ある意味、どこでも何でもいいと思っている。そんなことは、後からいくらでも取り返しがきく。生きていて、状況が許すかぎり、勉強はいつでもどこでだってできるし、仕事も何度でも変えられる。

特に若い時、やり方としてよくないのは、難しいから、苦手だから、という消極的な理由だけで、消去法で選択肢を狭めていってしまうことだと思う。考え抜いて選ぶべきなのは、大学でも、職業でもない。自分はどういう生き方をしたいのか、ということだ。周りの大人が「あなたはこうすれば大丈夫だから」と選択肢をあてがってやるのでは、まるで意味がない。それだと、失敗した時に他人のせいにしてしまう。自分自身で選び取った生き方なら、失敗しても自分の責任だと思えるし、その失敗を何らかの糧にして再び立ち上がることもできる。

生き方を選べる境遇にいるのなら、選ぶべきだ、自分自身で。生き方を消去法の他人任せにしたら、きっと一生後悔する。

ちっぽけな思いから

最初に、自分一人だけで一冊の本を書こう、と思い立った時、心に決めていたのは、自分という人間の存在ができるだけ表に出ないようにしよう、ということだった。

自分の目の前で起こる出来事の一つひとつを丹念に見定めて、文章と写真で、それらをできるだけ忠実に描写する。個人的な感傷や思い入れで邪魔しないように気を配りながら、言葉を選ぶ。自分という人間が何者なのか、読者にはまったく気にされなくて構わない。そう思いながら、本を書き上げた。

そうして完成した本を読んだ僕の知り合いの何人かは、異口同音にこう言った。この本は、まぎれもなく、あなたの本だ。この本には、あなたの思い入れが、これ以上ないほどあふれている、と。そんな感想が返ってくるとは想像もしていなかったので、僕はすっかり面食らってしまった。

世界のとある場所とそこで暮らす人々のことを、徹底的に追いかけて、ただひたすらにそれを伝えようとしていたら、そこに立ち現れたのは、僕という一人のちっぽけな人間の姿だったのだ。

だったら、その逆は、あるのだろうか。

僕という一人の人間の、本当に個人的な、ちっぽけな思いから、遥か彼方への旅を始めたら、その先は、どこにつながっていくのだろうか。この世界の、底の見えない深淵につながっていくのだろうか。何かの理が、目の前に現れたりするのだろうか。

その旅は、もう始まっている。

旅の中でのルーティン

昨日、本の執筆に取り組んでいる時の生活のルーティンについて書いたが、海外に旅に出ている時は何の縛りもなしに過ごしているのかというと、意外と旅の中でも、行く先々で自分なりのルーティンを見つけて、それに沿って過ごしているような気がする。

たとえば、毎朝、宿のロビーで小さなトーストをかじりながらコーヒーをすすったり。毎日同じ道を散歩しながら、同じアングルで違う色の空の写真を撮ったり。いつのまにか顔なじみになった食堂で、注文する前に何のメニューかをウェイターに言い当てられたり。

知らない街を訪れて、あちこち動き回りながら何日か過ごしていると、しぜんと自分にとって心地よいルーティンが生まれてくる。それをくりかえすことに、僕は一種の愉しさを感じている。そんな風にして、同じ場所で同じルーティンをしばらく続けるパターンが、僕の場合は結構多い。

そんな愉しいルーティンにも少し飽きてきたら、次の場所に移動する頃合いだ。

1文字の価値は何円であるべきなのか

しばらく前に、巷で言うところのビジネスSNSというサイトに、自分の情報を登録してみた。それにプロフィールを登録しておくと、自分の特性や環境に合う仕事の募集情報を得られたり、企業から打診のメッセージが届いたりする。僕のところにも、いくつかの企業から問い合わせの連絡が来た。

で、当然ながら原稿料や報酬の金額についてもやりとりするのだが、よく聞かれるのが「目安となる単価感のようなものはありますか? 1文字につき何円とか?」という質問。最近の書き仕事、特にWeb関係の案件は、1文字につき何円、というやり方で算出されているらしい。

現時点で自分が担当している仕事のうち、Web関連の一番安い案件で計算してみると、1文字10〜20円くらい。これでもかなり安い。しかし、件のビジネスSNSなどで問い合わせの来る案件だと、その10分の1かそれ以下。つまり、1文字につき1円かそこらということになる。1万字書いても1万円。怖ろしい。執筆にかかる時間から時間給に換算したら、いったいいくらになってしまうんだろう(苦笑)。

正直に言えば、単に所定の文字数を埋めるためだけに書けと言われれば、僕は、いくらでも速く書くことはできる。ただ文字数を稼ぐためだけならば。でも、そんな風にして量産された文章に、何の存在価値があるだろうか。そんなものを書いてしまったら、僕は、読んでくれる人(もしいるならば)に申し訳ないという気持しか出てこない。

そもそも文章の価値は、1文字につき何円、といったやり方で計算できるものではないし、計算すべきでもないと思う。同じ文字数でも、専門知識や豊富な経験が要求される文章、取材や調査の手間がかかる文章、執筆や編集のテクニックが必要な文章、何よりその人にしか書けない文章。少なくともそういう仕事には、内容や難易度に応じて、それに見合うだけの真っ当な対価がきちんと払われるべきだ。

1文字につき何円というやり方でしか文章の価値を測れない人や企業は、結局その程度のものさししか、自分たちの中に持ち合わせていないのだと思う。