Category: Essay

どうということのなさ

今週から始まった写真展「Thailand 6 P.M.」。水曜のオープニングの時にも、来場者の方々からいろんな感想をいただいたのだが、中でも「これ、いいですね」と言ってくれる方が多かったのは、この写真だった。

これは、去年チェンマイで撮ったもの。特に有名な場所にある石像とかではなく、つぶれて閉店してしまったらしいスパかエステか何か、その系統のお洒落系の店だった場所の軒先に、ぽいっと打ち棄てられていたものだ。たまたまその場所を通りがかった時、暮れていく太陽の柔らかな光がスポットのように石像の横顔に当たっていたのを、カメラで何枚か撮った。今はもう、あの場所にこの石像はないかもしれない。

どうということのない写真といえば、その通りだと思う。でも僕は、その「どうということのなさ」に、なぜか惹かれる。ささやかな、どうということのなさに感じる、いとおしさ。いとおしいものは、僕たちの身の回りに、たくさんある。

長生きする本を

午前中に打ち合わせを一件こなした後、八丁堀の出版社へ。用事のついでに、印刷所から届いたばかりの「ラダック ザンスカール スピティ 北インドのリトル・チベット[増補改訂版]」の見本誌を受け取る。印刷の具合、なかなかいい感じ。今夜はこれから、パタゴニアのロングルートエールとワイルドピンクサーモンで一杯やろうと思う。自分で書いた本の、届きたての見本誌を眺めながら飲む酒ほど、この世で旨い酒はない(笑)。

僕はなぜ、本を作る仕事が好きなのだろう、と以前考えてみたことがある。それはたぶん、きちんと丁寧に作った本は、僕よりもちょっとだけ長生きしてくれるから。僕という人間はどうあがいても、あと2、30年後にはこの世からいなくなる。でもおそらく、僕の作った本たちは、どこかの家の本棚や、図書館の片隅や、あるいは誰かの記憶の中で、僕よりも少しだけ生き延びてくれる。今回作った本も、何十年も経ってしまえばさすがにガイドブックとしての機能は果たせなくなるだろうけど、それでも一冊の本として、長い時を経ても読むに耐えるものを作ったつもりだ。

まあ、そうはいっても本もしょせん印刷された紙の束でしかないから、いつかは朽ちて土に還るだろう。宇宙的なスケールで考えれば、一人の人間がその人生を通じて世界に残せる痕跡なんて、取るに足らない芥子粒みたいなものでしかない。それでもやっぱり、僕は本を作るのが好きだ。自分の作った一冊の本が、誰かの心をほんのちょっと動かしたり、誰かの背中をほんのちょっと押したりすることを、願っている。今までも、これからも。

「ツーリスティック」について思うこと

「ツーリスティック」という言葉は、しばらく前から旅行者の間でよく使われるようになった表現の一つだが、ネガティブな意味で使われる場合がほとんどのように思う。「あの町は、昔はよかったけど、今はツーリスティックな場所になってしまった」といった具合に。日本語に置き換えると「観光化された」みたいな感じだろうか。

僕自身、観光化がまったく進んでいない辺鄙な土地に行った経験はそれなりにあるが、特に海外で、まったく「ツーリスティック」でない場所を旅するのは、ある程度旅慣れてないと結構大変だ。Webの情報とスマホと地図アプリを頼りに旅している最近の旅行者には、ちょっと厳しいかもしれない。

個人的には、日本でも、世界でも、ある場所の観光化が進んで「ツーリスティック」になること自体は、必ずしも悪い変化ではないと思う。観光業が定着することで地域の経済活動がうまく回るようになり、それによってその土地の伝統や文化が維持されていくなら、それは良い変化ではないだろうか。ただ、その観光化が計画的に進められず、その土地の伝統や文化のよさを損なうような形で「ツーリスティック」になってしまうのはよくない。残念ながら、世の中にはそういう事例も多い。

先日のラオス取材で訪れた古都ルアンパバーンは、街並自体が世界遺産に指定されている魅力的な場所だが、ここでの旅行者のお目当ての一つに、早朝の僧侶たちの托鉢の行列がある。旅行者は托鉢の様子の見学のほか、地元の人から喜捨のセットを購入すれば、自ら道端に並んで座って参加することもできる。朝の時間帯、托鉢の行われる界隈には100メートルおきに看板が置かれ、「僧侶たちの行く手をさえぎらないこと、僧侶たちに近づきすぎないこと、撮影時にフラッシュを使わないこと」といった注意書きが示されている。こうした取り組みがきちんと遂行されていれば問題ないのだが、実際は、なかなかうまくいかない。注意書きをまったく守らず、托鉢の列を邪魔するようにむやみに近づき、スマホでフラッシュを焚いてセルフィーを撮っている観光客がわんさかいたのは、とても残念だった。

「ツーリスティック」化が良い方向に向かうかどうかは、その土地の人々の取り組みだけでなく、旅行者の側も責任を負うべき部分が大いにある。何よりも大切なのは、その土地の伝統や文化やライフスタイルに対する理解と敬意を持つこと。旅する側も、受け入れる側も、その点を忘れてはならないと思う。

「クイーン」に罪はないけれど

昨日は、インド映画「クイーン」本国版をシネマート新宿に観に行った。作品自体は以前エアインディアの機内で観て、このブログに簡単なレビューも書いているが、日本語字幕つきで映画館の大きなスクリーンで観ると、この作品のよさがあらためてわかった。これまでに日本で公開されたインド映画の中でも、十指か、人によっては五指に入る良作だと僕は思う。

ただ、シネマート新宿での客の入りは、公開2日目で休日ということを考えると、正直、非常に寂しい状況だった。不入りの原因はとてもシンプルで、配給会社のココロヲ・動かす・映画社○(以下ココロヲ社)による事前告知とプロモーションが、ほとんどまともになされていない状況だからだ。

クイーン」は当初、2017年の春頃から国内で順次公開される予定だったそうだ。だが、ココロヲ社が同時期に吉祥寺で開業しようとしていた映画館、ココロヲ・動かす・映画館○(通称ココマルシアター)が、諸々の見通しの甘さと準備不足により開業を大幅に延期(そのちょっとありえないほどグダグダな顛末はこちらのまとめが詳しい)。「クイーン」もココマルシアターのトラブルのあおりを受け、結果として半年以上も公開が先送りされることになってしまった。

ようやく「クイーン」が公開されたのは、2017年10月下旬、ココマルシアターと横浜のシネマ・ジャック&ベティで。ココロヲ社による公開前のマスコミ向け試写会は行われず、メディア露出はおろか、予告編、ポスター、チラシ、作品の公式サイト、各種SNSなどの準備もほとんど整わないままでの上映開始。しかも公開されたのは、場面のつなぎに大きな矛盾がある短縮版であることが判明。それをブログで指摘したアジア映画に関する第一人者である松岡環さんに対するココロヲ社側の対応も、いささか礼を欠いていたと言わざるを得ないものだった。

その後、配給先からの強い要望もあってか、2018年1月から公開されるバージョンはインド本国版に変更されることが決定。だが、2017年11月から12月にかけて実施されたマスコミ向け試写会で上映されたのはなぜか短縮版。その上、プレスリリースやチラシなどに掲載されていた「クイーン」のあらすじを紹介するテキストが、インド映画のレビューで有名なポポッポーさんのブログに掲載されていたレビューのテキストをそのまま剽窃したものであったことまで露呈してしまった。結果的に、ココロヲ社は「クイーン」に関して、作品の印象を貶めるようなネガティブな行為ばかりくりかえしていたことになる。

映画自体に罪はない。だが、日本での配給会社であるココロヲ社の罪は重い、と僕は思う。作品の作り手たちに対する敬意も、作品のファンたちに対する誠意も、作品を預かる配給会社としての熱意と責任感も、すべてがあまりにも希薄だ。今もその自覚がないのなら、映画の配給からは金輪際、手を引いてほしいと思わずにいられない。でないと、映画が可哀想だ。

タフでありたい

以前、レーのノルブリンカ・ゲストハウスに泊まった日本人の方がメールで教えてくれたのだが、その人がデチェンに僕はどんな人間なのかと訊いたところ、デチェンは「タカ? タカはね、なかなかタフだよ」と答えたのだという。僕にとって、それはある意味、最上級の褒め言葉だ。実際、自分はタフかと問われたら、そうでもない、と答えると思うけど。

何かを誰かと競い合って、それを勝ち取りたい、周囲よりも優れた存在でいたい、とは、正直まったく思わないし、興味も湧かない。ただ、願わくば、タフでありたい、とは思う。ここで言うタフネスとは、単なる身体の強さというより、「人が人として生き抜くための強さ」だと僕は思う。生活をきちんと自己管理できる几帳面さ。面倒な作業でも粘り強く続けられる集中力。そのへんにあるものでささっと料理ができる腕前とか、何気ない会話で人の心を解きほぐせる気遣いとか、それから……。人としてまっとうに生き抜くために必要なことは、日々の暮らしの中に、本当にたくさん潜んでいる。

だから僕は、タフでありたい。今よりもタフになれたら、他の人に対しても、もっと何かをできる余力が生まれるかもしれないから。