Category: Essay

ジーンズにまつわる回想

あれは高校生の頃だっただろうか。初めて自分で選んで、裾上げしてもらって手に入れたジーンズは、リーバイスの502XXのレプリカだった。フロントがジッパーフライで、陸上をやっててウエストの割に太腿が太かった僕でも、楽に穿けるのが気に入っていた。

大学に入って東京に引っ越してからは、アメ横でリーバイスの501やUS505のレプリカを買った。それからしばらくして、リーバイスからリーに鞍替えした。101Zや101Bのレプリカは、買ってからさんざん穿いて、もう破れまくってどうにもならないくらいまで穿き続けた。全部で3本か4本は買ったと思う。周りがみんなリーバイスだったから自分はリーにしたかったという、アマノジャクな理由もある。あと、リーはレングスがリーバイスより少し短くて、裾上げしなくてもジャストで穿けるのも気に入っていた。

30代に入ってからは、日本のメーカーのジーンズも穿くようになった。フルカウントの1101はだいぶ色落ちしたけど、今も穿いている。少し前に買ったオアスロウの105も穿きやすい(ちょっとレングスの設定が短いので、裾上げで調整できる仕様だともっとよかった)。手持ちの中で一番気に入ってるのは、フェローズの421SW。フロントボタンが全部違うとか、ポケットがネルシャツの生地だとか、いろいろ変態仕様なのだが、シルエットがすとんと綺麗で身体になじむ。日本のメーカー(ファストファッション系以外)のジーンズは、生地に各社のこだわりがあるのと、シルエットが日本人になじみやすいこと、ディテールに手を抜いてないところが魅力だなと思う。

……こんな風に思い返してみたら、今まで穿いてきたジーンズの本数って、思っていたより意外と少ないことに気付いた。人生が終わるまでにあと何本穿けるのかな。一本々々、愛着を持ってしっかり穿き倒していこうと思う。

「カメラ目線」についての考察

たとえば、旅先で現地の人々のポートレートなどを撮影させてもらう時、「カメラ目線」で撮るべきかどうかというのは、意見の分かれるところだと思う。僕の知り合いのプロのフォトグラファーの方々にも、「カメラ目線」が苦手という人もいれば、逆に「カメラ目線」を作風の一つとして前面に出している人もいる。

結局のところ、「カメラ目線」で撮るかどうかは撮り手それぞれの好みの問題であって、「カメラ目線」だから写真作品として良いか悪いかが決まるという次元の話ではないのだと思う。「カメラ目線」であるからこそ意味を持つ場面もあれば、逆に目線がカメラに向けられていないからこそ意味を持つ場面もある。

僕の撮ったポートレート写真で世間に知られている作品には、「カメラ目線」の写真が比較的多い。ただ、それは意図的にそう撮ろうとして撮ったのではなく、自分のアプローチとして結果的かつ必然的にそうなったのだ。相手の人と近い距離で向き合い、言葉とか身振り手振りとかいろんなことで互いの気持をやりとりし、その結果として撮らせてもらった(撮らせてもらえない、あるいは僕はあえて撮らないこともある)写真なのだと思う。

その人がレンズとカメラを透かして撮り手自身を見つめていることに、意味があるのかどうか。撮り手がレンズとカメラを透かしてその人を見つめていることに、意味があるのかどうか。「カメラ目線」の場合、それを持ち合わせているのが、たぶん良い写真なのだと思う。

写真とえこひいきについて

知り合いの写真家さんたちと話していると、撮影する時に「えこひいき」をするかどうか、という話題になることがある。

たとえば、アジアのどこかの国を旅していて、子供たちが5、6人いるような場面に遭遇して、仲良くなって、写真を撮ることになったとする。で、子供たちの中に、ものすごく写真映えのする表情の子がいたとしたら、どうするか。みんな平等に撮るか、それともその子だけちょっとえこひいきして撮って、狙ったカットをものにするか。

ほとんどの写真家さんは、「えこひいきはある程度します」と正直に言う。それは確かにそうだ。プロとしてよりよい写真を撮るためには、そういう選択をしなければならない時もあると思う。

ただ、自分の場合はどうだろう、と思い返してみると……えこひいきはしない、というか、できないと思ってしまう場合がほとんどだと思う。せいぜい子供たち全員集合のカットを撮った後、1人か2、3人ずつ個別に何枚か撮っていく中で、その写真映えする子も単独で撮る、くらいか。

なぜ、えこひいきできないと感じるのかと考えてみると、自分は何かの場面に遭遇した時、写真家としての目線ではなく、物書きとしての目線で対峙しているからだと思い当たった。写真家としてクオリティの高い写真をものにするなら、ある程度えこひいきをするべきなのかもしれない。でも、物書きとしては、その子供たちとどんな出会い方をして、どんな時間を過ごしたのかという事実の方が、時と場合によっては写真より大事になることもありうる。えこひいきすることでそれが微妙に崩れてしまうのは、僕の望む結果ではない。

文章は言葉の羅列だから、書こうと思えばどんな風にでも書ける。でも、だからこそ、僕は起こった出来事をありのままの形で書きたい。その結果、最善のクオリティの写真を撮り逃したとしても、それは仕方ないとあきらめる。

物書きの目線で、写真を撮る。プロの写真家の方々から見れば、まだるっこしいやり方なのかもしれない。でも、だからこそ撮れる写真、書ける文章もあるのかもしれない。最近はそんな風に思っている。

EUとはいったいどんな組織なのか

今日は、英国で行われた国民投票でEU離脱派が多数を占めるという、衝撃的なニュースが世界を駆け巡った一日だった。その一方で、そもそもEUとは何のための組織なのか、具体的に知っていて一言で説明できる人は、そんなに多くないのではないだろうか。今年の春、とある取材でたまたまEUについて研究している方にインタビューさせていただいたのだが、その時に伺った話がとてもわかりやすかったので、ここでかいつまんで紹介しようと思う。

コンビニで販売されているミネラルウォーター。それらの中でも、エビアンやボルヴィックなどフランスから輸入されているミネラルウォーターのラベルには、EUの厳しい基準の検査をクリアした商品であることが詳しく記載されている。具体的には、「殺菌処理などを一切行っていない自然のままのものであること」「採水地の環境が完全に保護されていること」といった基準だ。こうした基準を、文字通り、世の中のありとあらゆる分野で設けて規制を行うことが、EUの仕事の7割から8割にあたると言っても過言ではないという。

つまり、「膨大な量のルールだけを作って運用している組織」というのが、EUの本質にもっとも近い形容なのだそうだ。ちなみに、EUがありとあらゆる分野に設けた規制の資料を本棚に詰めて並べると、何百メートルもの長さになってしまうほどだとか。それらの中には、環境保護活動から死刑制度の撤廃といったことまで含まれる。ルールこそが、EUをEUたらしめている最大の要素なのだ。

EUに属する国々がこんな風にあらゆる分野に統一基準を設けて運用していることで、それらの基準に共同で取り組むことで利便性が向上したり、厳しい基準をクリアした商品の国際競争力が向上したりするというメリットは確かにある。もちろんその一方で、分野によっては特定の国に何かしらの課題が生まれる場合もあるかもしれない。

しかし、今回の国民投票の結果を受けて、英国が今になってEU離脱という選択をするとしたら、どう考えてもデメリットの方が大きいと僕は思う。というか、離脱してEUのルールに縛られなくなることによって享受できるメリットはどんなものでどのくらいの規模のものなのか、正直言って見当がつかない。取材した方も「離脱しても、英国で明らかに何かがよくなる結果にはつながらないと思います」という意味のことを話していた。

ともあれ、賽は投げられた。どうなることやら。

自分の才能のなさに気付いた時

生きている中で、何かに対して、一生懸命に取り組む。勉強とか、スポーツとか、音楽、絵画、文章、写真……。そうして何かに夢中で取り組んでいるうちに、ほとんどの人は、その分野での自分の才能の限界に気付く。

才能というのは、その人が持って生まれた素質と、後から努力によって身につけることのできる能力とに分かれる。努力を積み重ねればいつか必ず報われる、と信じたいところだが、そんな努力の積み重ねすら軽々と凌駕してしまう圧倒的な素質の持ち主は、世の中に確かにいる。真摯に取り組めば取り組むほど、その差を思い知らされることになる。

才能の比べ合いで頂点のレベルに到達できる人は、この世にほんのひと握りしかいない。では、それ以外の人は、何かに対して取り組む価値すらないのだろうか? そんなことはない、と僕は思う。分野にもよるが、誰が誰より上か下かという才能の比べ合い自体には、本質的な価値はない。それよりも大切なのは、何のためにそれに取り組むか。何を成し遂げ、何を生み出し、何を伝え、何を残すのか。才能がないならないで、手持ちの限られた武器でどう戦い、どんな結果を目指すのかを考えればいい。

自分の才能のなさに気付いた時。そこからが本当のスタートなのではないかと思う。