インタビューという仕事について

フリーランスの編集・ライターになって、かれこれ20年になる。周囲からは、旅行関係の文章や写真の仕事が中心なのでは、と思われがちだが、仕事の割合で言えば、昔も今も、主に国内でのインタビューの仕事が中心だ。ジャンルや対象は時期によって結構違うけれど、今までインタビューしてきた人の数をおおまかに数えると、たぶん、1000人近くにはなる。びっくりするくらい有名な(でも面白いとは限らない)人もいたし、世の中的にはまったく知られてない(でもめっちゃ面白いことが多い)人もいた。

今思い返しても、インタビュアーとして駆け出しの頃の僕の文章は、てんでダメだった。地の文とか質問とかの言葉選びで、書き手である自分の色を出さなければ、と力みかえっていた。ただ、それから数年間、試行錯誤しながらあがき続けているうちに、そうした力みも、少しずつ薄れていったように思う。引き出さなければいけないのは相手の色であって、自分の色ではない。そんな当たり前のことに気付くまで、ずいぶん時間がかかった。

僕がインタビューをする時、自分自身の位置付けは、できるだけ無色透明のレンズのような存在としてイメージしている。相手から放たれる言葉や表情という光を、何の色もつけないまま受け止め、焦点を合わせて絞り込んでいく。それが理想だ。僕の書くインタビュー記事からは、書き手の恣意という色が、どんどん抜けていった。面白いことに、仕事の取引先や周囲の人たちは、そういう無色透明なインタビュー記事を「ヤマタカさんらしいね」と言ってくれるのだけれど。

インタビュアーとしての自分は無色透明な存在でいい、と思えるようになったのは、個性的なインタビュアーとして名を成したい、とは思っていなかった、というのもあるかもしれない。インタビュー記事を書くのは楽しいけれど、他の人の素晴らしい曲をカバーさせてもらって歌うようなものだ、と感じていた。それはそれで意味はあるけれど、歌うなら、自分自身の歌を歌いたい、とずっと思っていた。それが『ラダックの風息』『冬の旅』という、いささか振り切れすぎた形で(苦笑)現れてしまったのだった。

でも、今こうして旅の本を何冊も書くようになって、あらためて思うのは、これまでのインタビュー仕事の経験の蓄積が、ものすごく役に立っている、ということ。少し前に受賞した斎藤茂太賞の審査員の方々から「人が描けている」という選評をいただいたのだが、文章で「人を描く」には、その人の特徴や言動、そぶりなどを、つぶさに気に留めておく必要がある。インタビューの仕事では、そんな観察は脊髄反射的にやっているので、旅のさなかでも、その経験はそれなりに生きていたのだと思う。

インタビューでも、自分自身の言葉でも、大切なのは、伝えたいことをどれだけありのままに伝えられているか、なのだろう。

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