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原稿執筆ぼっち合宿 2023


先週の月曜から土曜まで、安曇野に行っていた。原稿執筆ぼっち合宿、約一年ぶりの実施。

合宿の目的は、先月から始まった金子書房のnoteでの連載「流離人(さすらいびと)のノート」の次回以降の原稿を書きためるため。年末に出る予定の新刊の編集作業がこれから本格化するのと、それ以外の仕事もいろいろ予測できないタイミングで入ってきそう(実際、合宿中に複数の相談メールが入ってきた)なので、少し余裕のあるうちにまとまった時間を作って、集中できる環境で、何篇か書き溜めておきたかったのだ。

到着日の月曜と出立日の土曜を除くと、完全に執筆に集中できたのは火、水、木、金曜の四日間だったのだが、一日一篇のペースで書き上げていくことができたのは、我ながら頑張った方だと思う。日に日に疲労がたまっていくのは実感していて、帰京した昨日の夜は、ほっとしたのか、前後不覚に十時間以上も爆睡してしまった。

先週は台風などの影響で雨の降った日が多かったし、晴れたら晴れたで日射しがめちゃめちゃ暑くて、自転車を乗り回すのもしんどかったので、滞在中は近所のコンビニまで一日一往復する以外、まったくどこにも行かなかった。それでもまあ、山に近いだけあって、朝晩は涼しかったし、日中も窓を網戸にして扇風機を回せば、どうにかしのげる程度だった。食事は普段ほとんど食べないインスタント食品やレトルトカレーばかりだったが、それはそれで気分が変わって新鮮だったので、楽しくはあった。

今年のうちにあと数回分は書き溜めておくとして、その後、連載終了までの間に……たぶんまた、どこかのタイミングで、合宿せざるを得なくなりそうな予感はする。来年の春以降かな。さて。

「流離人(さすらいびと)のノート」

金子書房のnoteで、旅にまつわるエッセイの新連載が始まりました。連載のタイトルは「流離人(さすらいびと)のノート」。毎月25日に1編ずつ公開されていきます。

【連載】「流離人(さすらいびと)のノート」 山本高樹(金子書房)

読者の方々からの反応によって、今後どのくらい続けていけるかが決まってくると思いますので、文章を読んで気に入っていただけたら、ページ脇にあるハートマークをクリックして「いいね」をつけていただけると、非常に助かります……。どうぞよろしく。

紀行文講座を終えて

午前中、八王子で紀行文講座の第二回を担当。どうにかつつがなく終えることができたように思う。これで、錦糸町、北千住、八王子の三カ所で開催してきた紀行文講座は、すべて終了。自分で提案した企画ではあったけれど、肩の荷が下りて、ほっとしている。

去年、大手町で集中開催したラダック講座と違って、各センターで分散して開催される形になった今回の講座では、予想外の出来事が多かった。たとえば、課題として短い紀行文をテキストとメールで提出するように受講者の方々にお願いしていたのだが、パソコンで文章を打ってメールで送信するという作業自体に馴染みのない年配の受講者も少なからずいらっしゃるということは、現場でスタッフの方々に聞いて初めて知った次第。その方々には手書きの原稿を封書で送っていただいて、それを自分の手元で全部テキストに打ち直すことになった。それ以外にも、正直、面食らうような出来事もいくつかあって、何事も、やってみないとわからないものだなあと感じた。むつかしい……。

来年以降も続けてほしいというご要望も複数の方々からいただいて、ありがたいことだなあと思う一方で、そもそも来年は自分があまり日本にいなさそう(苦笑)という事情もあり、単純に同じような形で紀行文講座を継続するのは、難しいかな、とも感じている。僕のような人間が教えられるライティングスキルを具体的に必要としている人に、もう少しだけ対象を絞った方がいいのかもしれない、とも思うし。あとは、オンライン受講の体制の見直しや、アーカイブ受講を可能にすることとか、そもそもどういう組織体制のもとでやるのか(自前でやるという選択肢も含めて)、今回の反省を踏まえて考えねば、と思っている。

ただ、その前に、僕自身が、文章にしても写真にしても、もっともっとスキルアップしなければならないとも思う。現状で満足していてはダメだなと。もっと、うまくなりたい。伝えたいことを、より伝えられるようにするために。

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トマス・エスペダル『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』読了。かなり期待して手に入れた本だったのだが、なかなかに難解で……。特に前半から中盤にかけては、読み解くのに苦労したというか、理解しきれないまま読み進めていた感がある。完全なノンフィクションの紀行文ではなく、フィクションを織り交ぜつつ、自伝やエッセイや詩などを組み合わせた複雑な仕立てにしているのは、ブルース・チャトウィンの影響も少なからずあるのかもしれないが、少なくとも僕は、チャトウィンの作品ほどには没入できなかった。読み手にも、それなりの知識と読解力が必要な作品なのだと思う。

「デチェン・ラモの言葉」

金子書房のnoteに、「デチェン・ラモの言葉」というエッセイを新しく寄稿しました。同社のnoteで展開されている「心機一転・こころの整理」という特集のテーマで依頼を受けて、執筆したものです。旅先で一文なしになった時の話(苦笑)とかをまくらにしつつ、本当にどうしようもなくきつい時期に支えられた言葉について書いています。

よかったら、読んでみていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

違いを生むもの

同じ銘柄のビールを置いているのに、「あれうまそうだなあ、おいしいなあ」と感じる飲み屋もあれば、「別に飲みたいとも思わないなあ、飲んでみたけど、こんなもんか」と感じてしまう飲み屋もある。同じ本を置いているのに、「これよさそうだなあ、買おうかな」と感じる本屋もあれば、「何かピンとこないなあ、買わなくてもいいか」と感じてしまう本屋もある。

同じ場所で同じ風景や人を撮っているのに、「いい写真だなあ、ぐっとくるなあ」と感じる写真もあれば、「こう撮りゃいいんだろと狙ってる感あるなあ」と感じてしまう写真もある。同じ相手に取材して同じテーマの話を書いているのに、「面白い話だなあ、読み返したいな」と感じる文章もあれば、「書いてる人、自分に酔ってるだけなんじゃないかな」と感じてしまう文章もある。

お店にしろ、写真とか文章とか、ほかのさまざまなことにしろ、素材にあたる部分が同じでも、届け手によって明らかな違いが生じることは、よくある。その違いは、それぞれの届け手の技量の差によるものだけではない気がする。丁寧さとか、根気強さとか、まっすぐな気持とか……そういうまごころのようなものも、確かに作用している、と僕は思う。

丁寧で一生懸命でも、実力が伴っていなければクオリティに問題が出るし、テクニックや経験は十分にあっても、誠実さが伴っていなければ信頼関係は生まれない。技量とまごころは表裏一体で、それぞれを磨き上げ続けてこそ、誰かに喜んでもらえるものを届けられるようになるのかもしれない。

ふと思ったことを、つらつらと書き連ねてみた。