先日の米国大統領選や、大阪の住民投票の推移と結果を見ていて思ったのは、事実ではない情報によって結果が左右されてしまわなくて、本当によかったな、ということ。自身に不利な郵便投票を強権で無効化しようとしたトランプも、大阪都構想に不利な試算の数字を隠し続けた大阪維新の会も、民意を覆すまでは至らなかった。
でも、選挙や投票の結果が出た後も、意見の異なる人々を分断する溝は、さらに広く、深くなってしまったようにも思う。日本全体でも、前政権から現政権にかけての間に、異なる主張の人々の間の分断はますます深まり、どうにも手のつけられない状態にまで悪化してしまった。
人と人との間を分かつものは、何なのか。その正体は、「嘘」ではないか、と思う。
ある事柄に対して、人それぞれ、異なる意見を持つ可能性があるのは、ある意味、当然のことだ。それらの意見は、誰かを誹謗中傷したり危害を加えたりするものでないかぎり、それなりに尊重されるべきだとも思う。ただし、そうした意見は、その事柄に関する正確で客観的な事実を踏まえたものでなければならない。事実でない情報を基にした意見は、けっして検討されるべきではない。なぜならそれは、結果的に、嘘に誘導されてしまっている意見だからだ。
事実に基づく意見を持つ人と、嘘に基づく意見を持つ人とが、互いに理解し合うことは不可能だ。事実と嘘は、けっして相入れないものだから。
最近の日本でも、あるいは世界各地でも、分断をいたずらに煽っている立場の人々は、嘘が嘘であることを承知の上で、あえてゴリ押ししているように思う。たとえ自分たちの主張が嘘に基づくものであっても、それを人々に信じ込ませて、それによって自分たちが支持を得て権力を握ってしまえば、嘘が力ある正義となり、事実の方を都合よくねじ曲げてしまえると考えているのだ。さらに悪いことに、こういう人々は、嘘を主張し続けるうちに、その嘘が事実であると自分自身でも信じ込んでしまう傾向にある。
ここ数年、日本国内でも、さんざんこういう所業が行われてきた。公文書やデータの隠蔽と改竄。マスメディアへの監視と圧力。戦前と同じか、それよりさらにひどい。
僕たち一人ひとりに今できるささやかなことは、事実と嘘をできるだけ見分けることのできる目を持つこと。胡散臭い情報源からの煽動的なニュースに惑わされないこと。大手メディアからの報道であっても、複数の記事やその扱いを比較して、おかしなところがないか考えること。こうあってほしいという願望に惑わされず、客観的に、冷静に状況を判断し、自身の意見をまとめること。
人と人との間を分かつ「嘘」を取り除き、「事実」で溝を埋めていく。気の遠くなるような作業だが、今の世界を少しでもまともな状態に引き戻すには、僕たち一人ひとりが、そう心がけるしかないのだと思う。