写真とえこひいきについて

知り合いの写真家さんたちと話していると、撮影する時に「えこひいき」をするかどうか、という話題になることがある。

たとえば、アジアのどこかの国を旅していて、子供たちが5、6人いるような場面に遭遇して、仲良くなって、写真を撮ることになったとする。で、子供たちの中に、ものすごく写真映えのする表情の子がいたとしたら、どうするか。みんな平等に撮るか、それともその子だけちょっとえこひいきして撮って、狙ったカットをものにするか。

ほとんどの写真家さんは、「えこひいきはある程度します」と正直に言う。それは確かにそうだ。プロとしてよりよい写真を撮るためには、そういう選択をしなければならない時もあると思う。

ただ、自分の場合はどうだろう、と思い返してみると……えこひいきはしない、というか、できないと思ってしまう場合がほとんどだと思う。せいぜい子供たち全員集合のカットを撮った後、1人か2、3人ずつ個別に何枚か撮っていく中で、その写真映えする子も単独で撮る、くらいか。

なぜ、えこひいきできないと感じるのかと考えてみると、自分は何かの場面に遭遇した時、写真家としての目線ではなく、物書きとしての目線で対峙しているからだと思い当たった。写真家としてクオリティの高い写真をものにするなら、ある程度えこひいきをするべきなのかもしれない。でも、物書きとしては、その子供たちとどんな出会い方をして、どんな時間を過ごしたのかという事実の方が、時と場合によっては写真より大事になることもありうる。えこひいきすることでそれが微妙に崩れてしまうのは、僕の望む結果ではない。

文章は言葉の羅列だから、書こうと思えばどんな風にでも書ける。でも、だからこそ、僕は起こった出来事をありのままの形で書きたい。その結果、最善のクオリティの写真を撮り逃したとしても、それは仕方ないとあきらめる。

物書きの目線で、写真を撮る。プロの写真家の方々から見れば、まだるっこしいやり方なのかもしれない。でも、だからこそ撮れる写真、書ける文章もあるのかもしれない。最近はそんな風に思っている。

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