カトマイでの滞在中、ブルックス・ロッジの日帰りツアーで、一万本の煙の谷(Valley of Ten Thousand Smokes)を訪れた。ロッジからはバスで片道一、二時間ほど。谷に近づくにつれ、次第に周囲の植生が変化し、若々しい木々が多くなっていった。
今からちょうど百年前の1912年、カトマイ山の近くにあるノバラプタ山という小さな山が、二十世紀最大規模の噴火を起こした。噴出した火砕流は周囲100平方キロメートルを飲み込み、あたりは完全に死の谷と化した。数年後、ロバート・F・グリッグス率いる探検隊がこの地の調査に訪れた時、広大な谷の至るところから無数の蒸気が噴き出していたことから、「一万本の煙の谷」と名付けられたという。
これだけ大規模な噴火だったにもかかわらず、当時このあたりで暮らしていたネイティブの人々はいち早く危険を察知し、本格的な噴火が起こる前に脱出することに成功。噴火による直接の死者は一人もいなかった。今は、谷の名前の由来となった蒸気の噴出などもなく、植生も少しずつ戻ってきている。
一万本の煙の谷の手前にあるビジターセンターから、二、三時間ほどかけて周囲を歩き回った。トレイルの道端に、まるで冗談のような形のキノコが生えていた。
堆積した火山灰を幾筋もの渓流が削り取り、新たな峡谷や滝を生み出していた。ほんの百年前まで、こんな光景はここに存在しなかったのだ。
それまで、生命の気配に満ち満ちていた秋のツンドラを見てきた僕にとって、それとは真逆の、生命の存在を拒絶するようなこの地の苛烈さは、強烈な印象を残した。この地が今こういう姿であるのも、自然の摂理の一つなのだろう。
抜け落ちた雄のムースの角を見つけた。今もどこかで、彼は草を食みながら、この谷を歩いているのかもしれない。
谷からブルックス・ロッジに戻った翌朝、ナクネク湖のほとりで、空が燃え上がるような朝焼けを見た。日本では朝焼けは天気が崩れる前兆と言われるが、アラスカでもそれは同じだったようで、この後は帰国まで雨続きの日々だった。
降りしきる雨が、木々の梢の先でしずくをきらきらと光らせる。もう少し経てば、こんな雨露もすべて凍りつく冬が訪れるのだろう。