自分の番

最近、死について考えることが多くなった。

どんな人間も、いつかは必ず死を迎える。そんなことは、ずっと前からわかりきっていたはずだった。でも、自分自身の死となると、茫洋とした遠い未来の出来事のような気がして、想像することができずにいた。それを、すぐにでも起こりうるリアルな出来事として感じるようになったのは、ここ数年のラダック滞在の中で、死と紙一重の場面に何度か遭遇したからだろう。

凍結した川の上を往くチャダルの旅では、目の前で一人のトレッカーが川に落ちて溺れかけたし、その一年前には、経験豊富なはずのザンスカール人男性が一人亡くなっていた。今年の夏のカルナクの旅では、集中豪雨で増水した濁流に行手を阻まれ、危うく流されてしまうところだった。同じ時、他のもっと易しいはずのルートで、何人ものトレッカーが命を落とした。そして、チョグラムサルをはじめとするラダック各地では、何百人もの人々が土石流に巻き込まれて亡くなった。今も行方不明の人が大勢いる。老人も、若者も、幼い子供も——。

どうして、彼らはあの時、死ななければならなかったのか。なぜ、自分は生き残ったのか。

いつかは必ず、自分の番が来る。病気かもしれないし、事故かもしれないし、もっと他の理由かもしれない。それは四十年後かもしれないし、十年後かもしれないし、明日かもしれない。でも今、自分はとりあえず、神様の気まぐれのおかげで生き残っている。もしかすると、そのことには何かささやかな意味があるのかもしれない。そうだとすると、その意味を活かせるかどうかは、自分自身にかかっている。

「一日々々を大切に生きていく」というのはよく言われることだけど、実はなかなか難しいとも思う。何もかもが自分の思い通りになるわけではない。うまくいかない時もある。サボりたい時だってある。毎日、確実に前に進んでいけるとは限らない。でも、少なくとも、自分が何を目指して進んでいるか、その方向だけはきちんと確かめて、ぶれないようにしなければならないとは思う。

文章を書いたり、写真を撮ったりすることで、それを見た人の心を、ほんの少しでもいいから動かす。それが、僕が選んだ道。そして、何者かが僕に与えた役割。どんな時も、そのことだけは忘れないようにしたい。いつか、自分の番が回ってきたとしても、「ま、仕方ないか」と笑いながらそれを迎えられるように。

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