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青山ブックセンター六本木店

青山ブックセンター六本木店が、6月下旬に閉店になるというニュースが流れてきた。

田舎の高校を卒業して上京してきたばかりの頃、六本木の青山ブックセンターは、僕にとって憧れの書店だった。デザインやアートや写真の本がずらりと並び、他では見たこともない雑誌や洋書にも、あの店でなら出会える気がしていた。六本木という街自体、僕には敷居が高すぎて、なかなか足が向かなかったが、逆に、何か用事があって六本木の近くに来た時は、必ずと言っていいほど立ち寄る書店でもあった。

大学を卒業した後、僕はじたばた苦しみもがきながら、少しずつ少しずつ、記事を書いたり、雑誌や本の編集に携わったり、自分自身で本を書いたりするようになった。その成果物である雑誌や本が、六本木の青山ブックセンターに並べられているのを見かけると、こんなことがあるのだなあと、不思議な、ふわふわした気分になった。

そんな憧れの書店だった場所が、38年の歴史に幕を閉じる。十数年前にも親会社の破産などで一時閉店になったりした時期があったから、寝耳に水というほどの驚きはない。ただ、本が本として大切にされていた場所が、また一つ減ってしまうのだなあと、寂しい気持にはなる。

僕は、本に対して、何ができるのだろう。

大型連休とやら

気がつくと、五月の大型連休とやらが、すっかり終わってしまっていた。

連休の間、僕はずっと東京にいて、ほぼずっと原稿を書いていた。直前の週に合計8件の取材が入り、連休の谷間にさらに3件取材が入った。いつもより〆切を伸ばしてもらっているとはいえ、書きまくらなくては到底追いつかない。世の中が休みの日は余計なメールや電話で邪魔されないというのが、唯一の救いだった。それでも前半にシャカリキに書きまくったおかげで、後半は少しだけ余裕ができて、街に出てひさしぶりにアウトドアウェアの買い物をしたり、スコティッシュパブでビールやウイスキーを飲んだりもできたが。

でもまあ、個人的には、連休が原稿でほぼ全部すっ飛んだことよりも、いつのまにか2018年がもう三分の一も終わってしまっていたという事実の方が、衝撃的だったりする。まじか……(汗)。今年は特に直近の三カ月が、本の編集作業と発売に際してのあれこれと大学案件の繁忙期とで、めちゃくちゃに忙しかった。しかし、今年は来月の方が、別の意味でさらに大変だったりする。どうなっちゃうんだろ、俺の2018年。

人見知りのままで

半世紀近く生きてきて、ようやくはっきりと自覚したのだが、僕は根本的に、人見知りなのだと思う。

年がら年中、国内外で初対面の人に取材しまくってるくせに、と言われそうだけど、取材の時は仕事と割り切ってるので、業務モードのうっすらとした仮面をつけてふるまっている。だからそこそこ無難に立ち回れるのだが、たまにどうしようもなく「あ、この人、絶対に合わない」という人に取材先で出くわしてしまうと、自分の中の拒絶反応を抑えるのにものすごく苦労する。たぶん、2割くらいは表に出ちゃってるんだろうな(苦笑)。

業務モードでない時は、多人数の飲み会とかもごくたまに勇気を振り絞って足を運んではみるのだが、たいてい一番隅っこの席に逃げ込んで、一人でビールを飲みながら「時よ早く過ぎろ」と念じている(苦笑)。知ってる人ばかりだと大丈夫なのに、やはり初対面の人には気後れしてしまう。

でもまあ、それはそれでいいか、と思う。別に、他人との出会いをシャカリキに求めてるわけでも、自分を認めてほしいと渇望してるわけでもないし。自分は自分。やるべきことを淡々と積み重ねながら、毎日を生きていく。繋がる人とはいつか繋がるし、繋がらない人とは無理に繋がる必要もないし。

明日も、明後日も、淡々と、生きていこう。

「意見」を読む前に「事実」を知る

今日の取材中、本筋とは関係のないところで、こんな話が出た。

最近、世間に出回っているニュース記事の類には、ニュースというより、それを書いた人の「意見」になってしまっているものが少なからずある。個人のブログであれば根拠のない誹謗中傷でもないかぎり好きに書いていいが、大小問わずメディアの名を背負う者の書く記事であるならば、まずは確固たる裏付けのある「事実」を提示すべきだ。その上で意見表明をしたいのであれば、社説など記名記事の場で論じればいい。

日頃からニュースを読む僕たちの側も、フェイクニュースやデマや扇動の類に惑わされないように、どの記事が真実を伝えているのかを見極める力が必要になる。そのためには、他人の「意見」を読んで安易に鵜呑みにする前に、何が「事実」なのか、客観的な視点で情報を集めて、自分自身で考える習慣を身につけなければならない。

自分の願望と同じ「意見」ばかりを集めても、「事実」の積み重ねである現実を見通すことはできない。

多様性と平行線

一昨日、取材の中で、こんな話題になった。

最近、ニュースなどでよく聞く「多様性」(diversity)という言葉。国籍や人種、性別、宗教、その他の内面的な価値観や意見の異なる人々が、この世界には混在する形で共存していることを指している。ただ最近は、「多様性を認めるべき」という言い方が、ともすると「異なる価値観や意見を持っている人ともわかりあうべき」というニュアンスで使われていることも多いという。

この「わかりあうべき」という考え方は、正直、かなりズレているように思う。というのも、世の中には、どれだけ互いに努力しても、どうしてもわかりあえずに平行線を辿るしかない関係にある人々が、必ず一定数以上はいるからだ。そういう人々とは、お互いにできるだけ干渉せずに平行線のままでいた方が、たいていうまく共存できるはずだ、と。

ある一つの考え方が、唯一無二の正しい答えであるとは限らない。正確な事実に基づいた論拠があれば、別の考え方もまた正解なのだ。その場合は、それぞれの論拠を確認し、認めないまでも、尊重しなければならない。

世の中には、本当にたくさんの、平行線のままでしか共存し得ない人々がいる。その時に忘れてはならないのは、地球上のすべての人間には、守られるべき尊厳と人権があるというルールだ。自分たちの価値観を強要しようとして、相手の尊厳を故意に傷つけたり、人権や身の安全をないがしろにしたりするのは、論外だ。巷に蔓延しているヘイトツイートやヘイトスピーチ、悪意のあるデマの類は、その域を完全に超えている。国会議員にすらそれに加担している輩がいるという事実が、この国の病の深刻さを物語っている。

平行線は、平行線のままで。無理にわかりあわなくてもいいから、お互いの尊厳と人権を、尊重して。