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旅行作家と旅写真家について、その後

二年くらい前に、「旅行作家と旅写真家は滅亡するか」というエントリーを書いた。あれから少し時が流れ、コロナ禍は「やや」沈静化し、国と国との間の行き来もかなり復旧してきた。実際、僕自身も、昨年夏にインド、今年の初めにタイに取材をしに行ってきた。

ひさしぶりに海外取材の仕事をしてみて、あらためて思うのは、あのエントリーで書いた予想は的中しつつある、ということ。旅行作家や旅写真家というジャンルの職業の衰退は、想定以上に加速しているかもしれない。

一つには、国際情勢や経済の状況が大きく影響している。ウクライナでの戦争に伴う物流の混乱や、エネルギーや食料の高騰、慢性的な円安傾向などで、海外取材に必要なコストは猛烈に跳ね上がっている。それだけのコストを払って海外取材を敢行し、本なりガイドブックなり雑誌なりを刊行しても、費やしたコストを回収するのはかなり難しい。そもそも、スマートフォンのアプリなどの利便性に押されて、旅関係の雑誌やガイドブックの売上はどんどん落ちていっている。

取材にかかるコストを削減するには、現地在住の協力者に情報提供を依頼したり、ライターやカメラマンへの報酬を減らしたりするしかなくなる。いくら海外での取材が好きでも、生活するのに必要な金額が稼げないなら、職業としては成り立たない。だからやっぱり、旅行作家や旅写真家が活動できる場は、これからどんどん減っていく。

僕自身、これから先、どうしようかなあと思案している。依頼される形でのガイドブックの取材の仕事などは、もう主軸としてはアテにできない(実際、出版社もつぶれたりしたし)。個人的に書きたいと思っているテーマ、作りたいと思っている本の企画は、ライフワークとして追求していきたいが、日々の生活のためのライスワークの選択と配分も、再検討してアップデートしていかなければならない。でないと、早晩、立ち往生してしまうことになる。

厄介な時代になったものだが、過去の遺物となって風化してしまわないように、サバイブできそうな道を模索していこうと思う。

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佐々木美佳『うたいおどる言葉、黄金のベンガルで』読了。「うたいおどる」という形容にふさわしい、伸びやかな筆致で綴られた、ベンガルの大地と人々、言葉、そしてタゴールへの愛着。この本の元となった連載の執筆を続ける間に、コルカタの映画学校への留学を決めてしまうという思い切りのよさには、びっくりした。これからもその軽やかさで、ベンガルにまつわる映画や本の制作に取り組まれていくのだと思う。

歩み去る人々

アーシュラ・K・ル=グウィンの作品を、一冊々々、少しずつ、読み進めている。この間、『風の十二方位』という短篇集を読み終えた。収録されていた17篇の中で、とりわけ強く心に残ったのは、「オメラスから歩み去る人々」という物語だった。

文庫本でほんの十数ページほどのこの掌篇は、オメラスという架空の街にまつわる物語だ。オメラスでは、諍いも何もなく、誰もが幸福に満ち足りた日々を過ごしている。オメラスの人々の幸福は、ある建物の地下の牢獄に幽閉されている、一人の子供の苦悶と引き換えに与えられている。誰かがその子供を救い出そうとしたら、オメラスの幸福は失われてしまう契約になっている。オメラスに住む人々はみな、そのことを知っている。

ほとんどの人が、幽閉されている子供のことを、見て見ぬふりをしたまま、日々を過ごしている。しかし時に、その子供の存在を知った少年や少女、あるいはもっと年老いた人々が、何も言わずにオメラスを離れ、ぽつりぽつりと、何処かへと歩き去る。何処へ向かうのかはわからない。でも彼らは、自分の選んだ行き先がわかっている。

ロシアとウクライナの間で戦争が始まってから、一年が経った。トルコとシリアの地震で、五万人以上もの命が失われた。ミャンマーでは、国軍が無辜の人々を弾圧している。日本は、どうだろうか。今の社会の中にはびこる理不尽なものごとの数々に対して、僕たちはぬるま湯に浸ったまま、見て見ぬふりをしてはいないだろうか。

僕も、見て見ぬふりをしない勇気を持ちたい、と思う。

初詣で願ったこと


年末年始は、実家方面に帰省していた。岡山と神戸を四泊五日で順番に回るという日程。いろいろ予定が入っていた上、来る日も来る日もご馳走三昧で、ありがたかったが、お腹周りは確実に肥えた(苦笑)。身体が重い……。ともあれ、今日の夕方、無事に帰京。

元旦の夕方、二人で、神社に初詣に行った。こぢんまりとした神社の割には結構な行列で、20分くらいは並んだと思う。順番が来て、賽銭を投げ入れ、手を合わせて祈る。帰り道、何をお願いしたのかを話したら、相方もまったく同じことをお願いしていた。

家族や友人、大切な人たちが、ずっと元気でいられますように、と。

小代焼のマグカップ


しばらく前から、マグカップを買おうと思って、どこかに良いものがないかと、ずっと探していた。

僕は毎朝、仕事を始める前にコーヒーをたっぷりいれ、仕事机でパソコンの脇に置いて、飲みながら作業に取りかかるのをルーティンにしている。その時、コーヒーを飲むのに使っていた自分用のマグカップは2つほどあって(イッタラのオリゴのマグと、バーズワーズのパターンドカップ)、どちらも10年くらい愛用してきたのだが、もう一つ、把手つきで良い感じのカップがあるといいな、とも思っていた。

研ぎ澄まされた北欧デザインの食器も、米国のダイナーで使われていたファイヤーキングのような無骨な大量生産品も、それぞれに良さがあると思うのだが、今回は日本の焼き物で何か良いマグカップはないかと探していた。手作りで、焼き上がりによって表情が一つひとつ異なるようなもの。ただ、そういう品はそもそも生産量が少ないので、ネットショップでよさそうな品を見つけてもすでに完売していたりと、なかなか良い出会いがなかった。

でも、ついこの間、見つけたのだ。これだ、というのを。

奥村忍さんが運営する「みんげい おくむら」を何気なくブラウズしていた時に目にしたのは、熊本県の小代焼ふもと窯のマグカップ。サイズ的に自分にちょうどいい塩梅で、把手もゆとりのある持ちやすそうな形。鷹揚な感じでかかっている青白い釉薬の表情もいい。値段もそこまで高くないし。

注文して、ほどなく届いた品を手に取って、ますます気に入った。しっくり手になじむし、実際にコーヒーを注いでみると、内側の白い釉薬の部分と黒いコーヒーのコントラストが、とても良い佇まいになる。おかげで、毎朝コーヒーをいれて飲むルーティンが、ますます楽しみになった。

日々の暮らしの中で何気なく使っている器や道具に、長く愛着の持てる、きちんと良いものを選ぶと、それだけ心にゆとりが持てるような気がする。このマグカップも、大事に、楽しみに使っていこうと思う。

本を読むのが遅い

本を書くことを生業にしている割に、僕は本を読むのが遅い。本自体のボリュームや、その時々の忙しさにもよるが、だいたい、月に2冊くらいのペースだと思う。

基本的には、斜め読みでの速読はあまりしたくないたちで、文体が自分の感覚に合う本は、1行1行、じっくり味わって読みたいと思っている。だから、読むのが遅いこと自体は特に気にしてないのだが、問題は、本を読む速度よりも、本を買う速度の方が全然速いことだ(苦笑)。何冊買っただろう、今年だけで……。部屋のあっちこっちの隙間に分散して収納しようとしても、残り少ないスペースは、未読の本たちによって刻々と埋まっていく。読んであげなきゃなあ、と思い続けてはいるのだが、追いつかない……。

というわけで、来年はまず、積ん読を少しでも減らすことを目標にしようと思う。まあ、読み終えたからといって、収納スペースが空くわけではないのだけれど。

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ナン・シェパード『いきている山』読了。スコットランド北部のケアンゴーム山群での山歩きをこよなく愛した著者が、岩や水や光から、植物、動物、人間に至るまで、山という存在そのものを構成する要素を一つひとつ、深い思索とともに解きほぐし、仔細に描き出していく。膨大な量の注釈が添えられていることからわかるように、けっして読みやすい本ではないが、きっと、再読すればするほど味わい深くなる本なのだと思う。

この本が書かれたのは第二次世界大戦の終わり頃で、それから一冊の本の形でひっそりと出版されるまで、30年もの月日がかかった。そして、ナン・シェパード自身が亡くなってからさらに30年ほど経ってから、ネイチャーライティングの知られざる名作として脚光を浴びるようになり、世界中で広く読まれるようになった。本という存在は時として、こんな風に思いもよらない形で、世界に対して答えを示すことがある。