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ぶち破っていくだけだ

フリーランスの立場で、物を書いたり、写真を撮ったり、本を作ったりする仕事をしていると、理不尽な理由で悔しい思いをさせられることが、しょっちゅうある。それは、年齢や経験をある程度重ねていってもあまり変わらなくて、むしろ、それらを重ねてきたからこその悔しさを味わう羽目になることも、よくある。

ついこの間も、ちょっとそういう思いをした。まあ、あれはどちらかというと、相手がいきなり全部おっぽり出して、尻尾を巻いて逃げてった、という感じだったけど。

そういう悔しさを晴らすには、僕の場合、自分の信念をけっして曲げずに、どうにか壁を突き抜けて、最善の努力を尽くしながら、一冊の本という形に結実させるしかないのだと思う。そうして完成させた本で、自分の信念が間違っていなかったことを証明するしかないのだと。

ふりかえってみれば、今までも、ずっとそうだったような気がする。「ダメだ」「無理だ」「難しい」と、わかってもいない人たちによって勝手に作られた壁を、一冊、一冊、自分自身で本を作って、自分の信念を自分自身で証明しながら、ぶち破ってきたんだった。

だから、次の壁もまた、ぶち破っていくだけだ。

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藤本和子『イリノイ近景遠景』読了。リチャード・ブローティガンの作品などの翻訳の名手として知られる著者の米国での生活の中から生まれたエッセイと、主にマイノリティの市井の人々へのインタビューを束ねた一冊。軽やかなタッチのエッセイで始まるが、章を追うにつれ、次第に重いテーマへと移っていく。一冊の本としてのまとまり感はやや乏しいが、文章はさすがの切れ味で、インタビューの手法や構成にも学ぶべきところが多かった。

新海誠監督「すずめの戸締まり」鑑賞。前作には正直、物語にいささか無理筋なところを感じたのだが、この作品はシンプルで、まっすぐに突き進んでいく王道のファンタジーだった。思いのほかロードムービー要素が強かったのも、個人的には楽しめた。震災をテーマにしたアニメーション映画を、これだけの公開規模の作品で作るのは、いろいろな意味での勇気と覚悟が必要だったと思う。その点においても敬意を表したい。

ほんのつかの間

今週は、ほんのつかの間ではあるけれど、ちょっとひと息つけそうな状況になった。

八月下旬にインドから帰国して以来、九月は新刊『旅は旨くて、時々苦い』の発売に合わせてのトークイベントやラジオ出演が立て続けにあった。加えて、よみうりカルチャーでのラダック講座も担当していたし、BE-PALのサイトでの短期連載の準備や、まだ表に出せない仕事も色々入っていて……本当に休む暇がなかった。特に、人前に出る類の仕事がいつになくたくさんあったので、絶対にコロナに罹患できない、罹ってしまったらその後の予定が全部吹っ飛んで、関係者の方々に大迷惑をかけてしまう……というプレッシャーがきつかった。

そんなこんなのあれこれもどうにか切り抜け、先週の原稿執筆ぼっち合宿が功を奏して、一番大変だった原稿もどうにか提出できるメドがついた。来週半ばの打ち合わせの後からは、また次の本の作業に着手せねばだけど。とりあえず、ひと息つける時はしっかり休んでおこうと思う。それが、ほんのつかの間だとしても。

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牟田都子『文にあたる』読了。穏やかな言葉で綴られているけれど、「気骨」のある本だなと感じた。牟田さんの(そして世の校正者の方々の)仕事に対する真摯さに接して、本づくりに携わる者の一人として、あらためて身の引き締まる思いがした。僕自身、執筆だけでなく、雑誌や書籍の編集もしていたので、この本を読み進めるうち、過去に自分がやらかしたあれやこれやがフラッシュバックしてきて、時々胃のあたりが重くなった(苦笑)。同じような思いをした同業の方々、きっと多いはず……。

カタギでない世界

昼、行きつけの理髪店で、二カ月ぶりの散髪。バリカンで、6mmの短さで刈り上げてもらう。まだまだ暑いし。

このお店には、もう思い出せないくらい昔から通っていて(たぶん十五年か、それ以上)、店主さんやスタッフさんともすっかり顔馴染みだ(僕の素性もだいたいバレている)。それもあってか、僕が散髪に訪れると、店主さんはほかのお客さんにはあまりしてなさそうな、いろんな話をしてくれる。彼自身はカタギの理容師だが、どういうわけか、カタギでない人々と非常に幅広い交友関係を持っているそうで、ぶっちゃけ、ここには書けないような話ばかりしてくれる。今日の話も、聞いている分には興味深かったけど、あまりにもきわどすぎて、ここにはとても書けない(苦笑)。

世界は、僕が思っているより遥かに広いのだなあ、と散髪に行くたびに思い知らされるのであった。

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川内有緒『空をゆく巨人』読了。インド取材の初日、デリー空港の乗り継ぎ待ちで読み始めたら止まらなくなり、レーに着く前に読み終わってしまった。志賀忠重さんと蔡國強さん、そして二人を取り巻く人々の生き様と、我々自身とも深く関わってくる未来に向けての熱い物語。

カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』読了。ザンスカールで橋が壊れて、パドゥムで足止めを食った時に読んだ。有名な作品なので期待してたのだが、自分には「人を食ってる度」が強過ぎたというか、登場人物の誰にも感情移入できなくて、読んでてちょっとしんどかった……。上手いのはわかるのだが。

仕事でもなく、遊びでもなく

昨日書いた文章の、うっすらとした続きのような、そうでもないような文章になるのだけれど。

僕が旅に出る時、その種類は、だいたい三種類くらいに分かれるような気がする。一つは、完全に仕事のために行く旅。ガイドブック改訂のためのリサーチ取材とか、ツアーガイドの仕事とか、プレス向けツアーとか。依頼される形ばかりではなく、時には企画から自分で立てる取材もあるが、それも自分の中ではこの分類に入る。

二つめは、完全に遊びというか、趣味としての旅行に行く場合。2018年に行ったラオスとか、2020年初頭に行った台湾とかは、この分類にあたる。余暇といっても、旅の中で撮った写真を使って記事とかも書いてはいるのだが、それはあくまで結果的に仕事につながっただけのことで、自分の中では仕事目的の旅という意識はない。

三つめは……ややこしいのだが、完全に仕事というわけではなく、かといって完全に遊びというわけでもない、もやもやとした位置付けの旅。ラダックを旅してきた中でも、『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』の取材のような大きな計画の旅や、ここ何年か少しずつ通い続けているアラスカ方面への旅が、これにあたる。仕事でもなく、遊びでもなく、というのは、その旅の動機と目的が、とても個人的な、でも心の奥底の深い部分から出てきているものだからだ。

その旅の成果を、本などの形にしてまとめたいという気持ちはある。でも、単に自分が名を上げたり利益を得たりするための成果として、それを目指しているわけではない。そうかといって、本にすることなどまったく考えず、自分一人がその旅を堪能すればいい、とも思えない。もしかすると、その旅を通じて、人に伝える意味のある何かを見届け、持ち帰ってこれるのではないか……という思いがある。

仕事でもなく、遊びでもなく、自分自身でもうまく説明できない、でも行かずにはいられない旅。僕が一番大切にしているのは、そういうもやもやした思いで出かける旅だ。うまく言えないが……自分が生きていくための道筋のようなものを、その旅の中で見つけようとしているのかもしれない。どこに道があるのかもわからない、深い雪の中に埋もれている、たった一本のロープを、たぐり寄せようとしているように。

旅をするのも、写真を撮るのも、文章を書くのも、本を作るのも、僕にとっては確かに仕事だけれど、それだけではないのだと思う。自分という人間が生きていく上で必要な、迷い、苦しみ、あがきながら、踏み出していく一歩々々の、足跡のようなものなのかもしれない。

考える時間

「コロナ禍で、旅に出られなくなりましたけど、大丈夫ですか? ストレス、溜まりませんか?」

という質問を、去年から割とよくされる。確かにコロナ禍以前は、一年のうち三、四カ月は日本にいないような生活を送っていたから、そう思われても当然かもしれない。

ただ、当の本人は、意外というか何というか、特に悩んでもなければ、ストレスを溜め込んでもいない。それどころか、実のところ、ほんの少し、ほっとした心持ちでいる。それは単に、僕自身のタイミング的な問題だと思うのだが。

2019年の1月から2月にかけて、何年も前から計画を練って狙っていた厳寒期のザンスカールでの旅を実行して、その経験を基にした本『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』を書いて……自分がこの十年以上もの間、積み重ねてきたものが、ある種の奇跡のような形であの一冊に結晶したことで、僕は文字通り、すべてをやり尽くしたような心境になっていた。その後も種々の仕事で海外に行ってはいたし、2020年の夏もラダックやアラスカに行く計画を立ててはいたが、本当の意味で、自分は次に何を目指すのか、そのためにはどこへ旅して、何をすべきなのかが、自分自身の中でうまくまとまらず、もやもやしたままだった。

だから、去年の夏の海外への旅がコロナ禍で強制キャンセルされて、残念ではあったけれど、心のどこかでは、自分で自分を引っ叩いていた手綱をゆるめることができて、ほんの少し、ほっとしていたのだと思う。

自分に必要なのは、考える時間だった。そういう意味では、去年からずっと取り組んでいた『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』の執筆は、自分自身のこれまでをすっかりふりかえって整理できたという意味でも、すごく有意義な作業だったと思う。

何のために、誰のために、何をして、何を見出し、それをどう伝えるのか。競い合うのではなく、見せつけるのでもなく、ただ、大切な誰か、大切な何かのために、何ができるのか。

じっくり、考えてみようと思う。幸か不幸か、時間はまだまだ、たっぷりある。