蟄居の日々

先週末は、相方と二人、ほぼ家に閉じこもって過ごした。出歩いたのは、日曜の昼に近所に食パンを買いに行った時くらい。

土曜は魯肉飯と煮卵と大根スープを作り、日曜は二日前に仕込んでおいた塩豚を根菜と一緒にコトコト煮て、味噌とバターと牛乳で味付けしたスープを作った。近所の焼き菓子屋さんで買っておいたショートブレッドをコーヒーと一緒にいただいたり、これも近所で買ったレバーペーストやチーズを肴にウイスキーをちびちび飲んだりした。こういう時、ささやかにでも、食事とかで気分をアゲていくのは、心の平安を保つために大事だと思っている。

家の外、というか世界は、いろいろ大変なことになっている。ただ、今の時点で僕たち一人ひとりが実践できる最善の選択は、可能な限り家の中にいて、外を出歩かないことだ。一人ひとりがセルフ・アイソレーション(自主隔離)を徹底する以外、新型コロナウイルスの脅威を克服する方法はない。

それにしても、感染拡大を食い止めるために奮闘を続ける医療従事者の方々や、各地方自治体の担当の方々、ライフラインや交通の維持に携わる方々、配送業者の方々、スーパーやドラッグストアの販売員の方々……そういう方々がいなければ、今の社会は完全に壊れてしまう。本当に、感謝してもしきれない。

そして、政府からの「自粛を要請」、つまり「責任も取らないし補償もしないけどお前ら空気読めよな」という理不尽な要求によって、厳しい状況に追い込まれている個人経営のお店やレストランの方々のことも、とても気にかかる。どうにかして支援したいが、なかなか良い手立てがないのが今回の事態の困ったところだ。他の国々では当たり前のように金銭による補償がなされているのに、日本政府はどうしてこうも冷淡なのだろう。

とにもかくにも、今は、自分にできる最善の選択、蟄居を継続するほかない。サバイブしよう。

「ヴィクラムとヴェーダー」

不穏な雰囲気の世の中ではあるが、マスクと消毒液持参で、混む列車と繁華街を避けまくり、アップリンク渋谷へ。インド大映画祭の「ヴィクラムとヴェーダー」を観に行った。これはどうしても、日本語字幕付きのスクリーンで、見届けておきたかったのだ。平日の初回だったこともあって、場内は空いていて、ちょっとほっとした。

殉職した警官の父を持つヴィクラムは、自身も警官として、相手が悪党であれば射殺も厭わない非情さで、ギャング組織の黒幕であるヴェーダーを追っていた。ギャング同士の抗争に見せかけて、次々とヴェーダーの手下を始末していく、ヴィクラム率いる警察の偽装襲撃チーム。そんな中、突如、ヴェーダー本人が警察署に出頭してくる。他の誰に対しても固く口を閉ざしていたヴェーダーだったが、ヴィクラムが取調室に現れると、饒舌に自身の過去を語りはじめる……。

いや、これ、すごい。すごい作品だ。他の人のレビューに「あまりにも人が死に過ぎる」という意見があって、まあ確かにそうなのだが、ギャング同士の抗争とか、酷過ぎる警察とか、そもそも死人が出やすい物語設定だし、そのあたりがマイルドだと、この作品の「善と悪の境界線」というテーマが、重みを失ってしまうように思う。善とは何か、悪とは何か、誰が、何を基準にそれを決めるのか。ヴェーダーの問いかけに、ヴィクラムの信じていたものが、不確かに揺らいでいく。

R・マーダヴァンとヴィジャイ・セードゥパティの二人は、どちらも渋くて凄味があって、ずしりと重い(そしてほんの時々カルい)演技が、とてもよかった。なかなか先を見通せないストーリー、伏線の巧みさ、まさか!の展開、そこで終わるのかよ!のラスト。ほんと、いろいろ衝撃だった。観ておいてよかった……。

それでも僕は、今日カレーを煮る

それにしても、新型コロナウイルス。なかなか、厄介である。

昨日、東京では、1日に判明した人数としては最多の41名の感染者が発見された。このペースがさらに加速すれば、非常事態宣言からの首都封鎖(ロックダウン)も現実味を帯びてくる。都知事は昨夜、今週末の外出の自粛を要請した(責任も取らないし補償もしないけど空気読めよな、という「自粛の要請」である)。それでどのくらいの効果があるのか、甚だ疑問ではある。

外務省は、全世界を対象に、レベル2の危険情報を出した。こんなことは前代未聞だ。インドは昨日から3週間、全土で外出禁止令が出ているし、世界各国の大都市でも似たような指示が出ている。イタリアやスペインでの死者数の激増のニュースは、本当に痛ましくて、やりきれない。

そうかといって、僕は医療従事者ではないし、マスクや消毒用アルコールを製造できるわけでもない。今の自分にできるのは、外出の後にうがいと手洗いを励行し、人混みを極力避けることくらいしかない。まあでも、今は、一人ひとりがそう心がけるのが、一番大事なのだと思う。

昨日、今後1週間くらいの自炊の献立を考え、無駄にしないように食材を吟味して、二人が1週間、問題なく食べていけるような準備を整えた。無闇に保存食を買い溜めるのではなく、生鮮食品も含め、献立に合わせて、必要なものだけを。週末はもともと外出しないつもりだったし、しばらくは主に家に籠もって、仕事をしたり、本を読んだり、料理をしたりして過ごそうと思う。

とりあえず、今夜は、カレーを煮る。チェティナード・チキンカレーと、カチュンバル。

もしも「ないがしろ」にされたなら

人間、生きていると、いろんな場面で「あ、自分、この人にないがしろにされたな」と感じることがある。

「ないがしろ(蔑ろ):あってもないもののように軽んじること。また、そのさま(デジタル大辞泉)」

相手が自分を軽んじる理由は、社会的地位や経済力の格差だったり、利用価値がないと判断されたり、差別的な思い込みだったり、確たる理由のない感情的な反応だったり、まあ、いろいろあると思う。たとえば、この間の、政府の新型肺炎対策に伴って休業を余儀なくされた人への補償政策で、フリーランスの人は勤め人の半額程度しか補償されないという案が出されたという件は、フリーランスの人が今の日本でどれだけ軽んじられているのかを、如実に表している。首相自ら「多様な働き方は推奨したけれど、フリーランスという働き方を推奨したわけではない」と国会答弁で言ってるし(フリーランス諸氏、もう自民党に投票するのやめようぜ、苦笑)。

僕みたいに、企業や組織に属することなく、ずっとフリーランスで、しかも職種が物書きや編集や写真という人間は、それはもう、年がら年中、誰かにないがしろにされている、と言っても過言ではない。駆け出しだった頃はもちろん、今でも、しょっちゅうだ。いつも、理不尽な、悔しい思いばかりさせられている。

懸命に頑張った仕事に対して、ありえないほど低い額の報酬を提示されたり。誠心誠意を込めて送った連絡や相談を、何週間、何カ月も放置されたり。その場しのぎの言い訳で、大事な約束を反故にされたり。力のある立場を利用して、明らかに見下した発言をしてきたり。逆に、うわべだけの社交辞令で、適当な言動を寄越してきたり。……あー、思い当たるふしが過去にありすぎて、今更ながら、ムカついてきた(苦笑)。

まあでも、自分より弱い立場の者をないがしろにする人間は、残念ながら、世の中に一定数存在する。そして、そういう人の考えを矯正することは、とても難しい。今までの自分の経験でも、相手の非に対するこちらからの指摘に聞く耳を持つ人は、皆無だった。そういう人は、そういう人なのだ。関わるだけ、時間と手間の無駄だ。

では、もし自分が「ないがしろ」にされたとしたら、どうするか。僕はとりあえず、二つのことを心がけている。

一つは、その相手と関わらないところで、自分の実力で、きっちりと結果を出して、見返すこと。まあ、自分のベストを尽くして最善の結果を目指すことは常に心がけているので、「いつも通りか、いつも以上に頑張る」というだけなのだが。たま〜に、そういう形で、きっちり結果を出して見返すことに成功すると、少なくとも自分の中では、とてもすっきりする(笑)。当の相手は、たぶん何とも思っていないだろうけど。

もう一つは、自分が「ないがしろ」にされたと感じたようなことは、他の人に対して、絶対にしない、ということ。たとえば、細かいことだけれど、相手にとって大事な内容のメールを塩漬けにしたりせず、なるべく早く返信するように心がけているのは、過去に自分が嫌な思いをさせられたから。相手の仕事や経歴はできるだけ尊重したいし、うわべだけの適当な言動であしらったり、まして見下したりは絶対にしない。特にお金の話をする時は、裏表や下心なく、誠心誠意対応する。それでももし、結果的に誰かをないがしろにしてしまった時には、すぐさま全力で詫びる。

そういうことを心がけながら生きていると、身の回りには、しぜんと、良い人間関係だけが残っていくように思う。

校正という仕事

昨日は午前中から出版社で打ち合わせ。今作っている本の初校に、外部の校正者の方がチェックを入れてくれたゲラを受け取った。

校正者の方が赤ボールペンで指摘してくれた明らかな誤字脱字や文法上の間違いは、ほんの数える程度だった。ただ、それ以外に鉛筆書きで書き込んでくれていた「明らかな間違いではないけれど、ここはこうする選択肢もあるかも」「ここはあえてこうしているんでしょうが、一応念のため」といった内容の指摘の数々が結構多かった。

書き手にとって、鉛筆書きでのそうした提案や指摘、確認をしてもらえることは、ものすごく助かる。書き手一人のものの見方や考え方に囚われず、客観的にその文章の正確さを判断することができるからだ。編集者もそういう役割の一端を担うことはあるが、彼らは主に内容の方向性や良し悪しを判断する立場なので、文章そのものを微に入り細に入りチェックし、日本語としてのクオリティを上げるという作業では、プロの校正者にはかなわない。

自分の書いた文章が、こんな風にしてさまざまな人の手を経て、一冊の本として仕上がっていくのは、本当に、著者冥利に尽きる。