土壇場で荒行

昨日は朝の4時半起きで、電車と新幹線を乗り継いで、福島へ。現地にある大学で3人の方に取材。梅雨時の割に天気がよくて助かったが、なにしろ遠いので(苦笑)、なかなか疲れる。

それでもどうにか首尾よく取材を終え、在来線の最寄り駅までダッシュして飛び乗ったはいいものの、福島駅で乗り継ごうとした新幹線は満席で、結局そこから1時間待ち。新幹線の中で食べようと考えていた駅弁は駅構内では売り切れ。トホホな気持ちですきっ腹を抱えつつ東京駅まで戻り、八重洲のエリックサウスでミールスを瞬殺(笑)。

そして今日は、起きてすぐに都議選の期日前投票に行き、それから昨日取材した分の原稿を3本、ガリガリと一気に書き上げる。普段ここまで急いで書くことはあまりないのだが、何しろ、あさってから2カ月インドだし、明日はいくつか予定もあるので、今日書かないわけにはいかない。机の前でよれよれになりつつ、「そもそも何でこんなタイミングで取材引き受けちゃったんだろ?」と、今さらながら自問自答。

出発前の土壇場での荒行。やれやれである。

「光」

河瀬直美監督の最新作「」。視力を失いつつあるフォトグラファー、中森と、視覚障害者のために映画の音声ガイドを作っているライター、美佐子の物語。これは観ておかなければ、と思っていた。

観ていてまず感じたのは、光と影、そして一つひとつの物音が、とても丁寧に捉えられ、繊細に表現されているということ。観る者の感覚は映画の中に引き込まれ、自分自身を取り巻く世界のディテールを感じ取る。

次に感じたのは、僕たちはみな、別に何も違わない、同じ人間なのだ、ということだった。この世界には、目や耳、手足にハンディキャップを抱えている人、あるいは認知症などで思考や記憶にハンディキャップのある人もいるけれど、それぞれが、それぞれの世界を持っている。一人ひとり、みな違っていて、だからこそ、何も違わないのだと。

そして、観終わった後に思ったのは……大切なものを失っても生きていく、ということについて。

もし自分が、写真を撮ることができなくなって、あるいは文章を書くことができなくなって、それでも生き続けなければならないとしたら。そう想像した時、本当に背筋が凍るような感覚で、怖ろしくなった。普通に死を迎えるより、その方がずっとつらい。なまじ、こういう仕事をしているからではあるけれど。

人間は、大切なものを、ずっと抱えながら、そして時々失いながら、生きている。僕たちが生きていく先に横たわっているものは、希望なのか、それとも、あきらめなのか。それを簡単な言葉に置き換えたくはない。いつか終わりが来た時に、その人だけが感じ取れるものなのかもしれない。

妹の上京

昼、妹からメッセが届いた。修学旅行の引率(妹は地元岡山の高校で教師をしている)で昨日から東京に来ていて、今日は生徒たちは自由行動で自分は夕方までヒマなので、仕事の都合がつくなら、新宿でお茶でも飲まないか、と。

外を見る。すごい雨。ほとんど嵐。この雨の中を新宿まで出てきて、自分のヒマつぶしに付き合え、と。我が妹ながら、どうかと思う(苦笑)。

少々濡れてもいい服を着て、日本野鳥の会の長靴(去年の秋、南東アラスカに行くために買った)を履き、えっちらおっちら、新宿へ向かう。紀伊国屋書店で妹と落ち合うと、腹が減ってるというので、アカシアでおひる。その後は、伊勢丹の地下などでおみやげを買うのに付き合ったり、タカノフルーツパーラーでパフェを食べるのに付き合ったり、ブルーボトルコーヒーでコーヒーを飲むのに付き合ったり……結局、夕方まで付き合うことになった。

修学旅行の引率の仕事は、何気にいろいろ手間がかかるらしい。会っている最中にも自由行動中の女子生徒から「滑って転んで服が濡れたから、着替えに宿に戻りたい」と半ベソで電話がかかってきたり(笑)。昨日の夜は、ホテルのドアで顔面強打して流血した子もいたらしい。若いって大変である。

……まあ、今日に関しては、こっちもたいがい大変だったけど(苦笑)。疲れた。今日やるはずだったインド旅の荷造りは、明日にしよう……。

かりそめの時間

すべての人間の死亡率は100パーセントだし、あらゆる生物の死亡率も100パーセントで、地球という惑星が消滅する確率も100パーセント。そしてたぶん、宇宙や時間そのものが消え去ってしまう確率も100パーセント。

ずいぶん昔、子供の頃に、そんな考えが浮かんで、ずっと頭から離れなくなった。今もそうだ。

僕たちは、ほんのまたたきのような、かりそめの時間の中を生きている。与えられたわずかな時間の中で、何かの意味を見つけようと、あがいている。

「セールスマン」

イランのアスガー・ファルハディ監督の最新作「セールスマン」。監督と主演女優タラネ・アリドゥスティが、米国のトランプ政権が今年1月に中東7カ国からの入国制限を実施したことに抗議して、アカデミー賞授賞式のボイコットを表明したことでも話題を集めた作品だ。以前から何だか気になっていて、観なければ、と思っていた。

教師のエマッドと妻のラナは、小さな劇団に所属し、アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」の稽古に励んでいる。住んでいたアパートが突然損壊して、家を失ってしまった二人は、劇団のメンバーのつてで別のアパートに移り住む。前の住人が残していった気になる荷物。そして事件が起こる。アパートに一人でいたラナが、浴室で何者かに襲われて大怪我をしてしまったのだ。犯人を探し出そうといきり立つエマッドと、深刻なショックを受けて、表沙汰にはしたくないと拒むラナ。すれ違っていく二人の感情。やがて明らかになる、犯人にまつわる真実……。

この映画、観る者の予想を裏切る形で二転三転していくような、いわゆるサスペンスとしての謎解きの展開は、実はあまりない。言い換えれば、そういう点が逆に観る者の予想を裏切っているとも言える。一つの大きな事件を挟んで、物語は淡々と進む。明らかになる謎もあれば、あえてそのまま置き去りにされる謎もある。

深く傷ついた心が立ち直ることの難しさ。罪を許すか、許さないか。償わせるとしたら、どうすべきか。観終わった後、もやもやとした気持が残る。このもやもやこそが、監督がこの映画に込めようとしたことなのかもしれない、とも思う。