朝、宅配便で「撮り・旅!」の見本誌が届いた。
慎重に梱包を解き、本を一冊取り出す。カバーと帯、クラフト紙の表紙、微塗工紙の本文紙、肝心の印刷の具合を確かめながら、1枚ずつページをめくっていく。特に問題はないようだ。よかった。ほっとした。うれしいというより、とにかくほっとした。
ほっとしたら、力が抜けた。それから一日、何もする気が起きず、腑抜けのようになって過ごした。終わった。終わったんだな。
雨粒が落ちてくるのは見えないのに、歩いてると服がじっとり湿ってくるような、そんな天気の日。
午後、南大沢で取材。相手の方に、「ライターという仕事は大変でしょう? 実はうちの息子も、フリーライターをやっているんですよ」と言われる。どんなジャンルのお仕事を、と聞くと、机の上にあった、音楽やサブカル系のムックを見せてくれた。各ページに散らばる小さな記事に、一つひとつ、丁寧に付箋が貼ってあった。
「でもね、この間、身体を壊して、入院してしまったんですよ」
聞くと、週刊誌の編集部から無茶なスケジュールでの仕事を立て続けに依頼されたり、悪質なクライアントに原稿料を踏み倒されたり、あちこち振り回されているうちに体調を崩してしまったのだそうだ。
「ライターの仕事はやめた方がいいんじゃないか、とも言ったんですが、聞いてくれなくてね‥‥」
そうですね、とも、もう少し見守ってあげてください、とも、僕は言えなかった。何者かになろうとして、必死にあがいている駆け出しのライター。息子の書いた記事に付箋を貼りながらも、行末を案じている父親。どちらの気持も、僕には痛いほどわかる。
たぶん僕は、他の人よりほんの少しだけ運がよかったから、今の仕事をかろうじて続けられているのだと思う。
午後、南大沢で取材。大学案件では三、四週間ぶりくらい。
六月に入ってから今回までの間にも何件か取材はあったそうなのだが、それには依頼元が新しく契約したライターさんを起用していたそうだ。今日は最先端系のややこしめのテーマの取材だったので、僕にお鉢が回ってきたらしい。いや、何度も言うけど、僕もコテコテの文系なのだが(苦笑)。
苦労しつつもどうにか原稿四本分の取材を終え、片道一時間の電車に揺られて帰路につく。吉祥寺で降りて、リトルスパイスでアジアンレッドカレー。辛味で火照った首筋に、夕方の風が気持いい。
夏至を過ぎて、一年も折り返し。あっという間だな。
最近、「才能」とか「素質」などと呼ばれる能力について考えることがある。生まれながらに持ち合わせた、他の人より秀でた能力。確かに、そういう力があるに越したことはないなと思うし、ある人はうらやましいなと思う。
ただ‥‥あまり範囲を広げすぎると収拾がつかなくなるけど、少なくとも僕が属している「本づくり」の世界では、「才能」がなくても、その差を埋め合わせて、ちゃんとした本を作ることはできると思う。それは執筆や編集、写真、イラスト、デザインなど、各職種にも通じる。
世の中でどんな本が読まれているのか、その中で自分が好きなのはどんな本なのかを「観察」すること。なぜそれがいいと思うのか「分析」すること。その上で、自分はどんな本を作りたいのか、その本で何を伝えたいのかを「突き詰める」こと。その本を実現するために必要な人に「協力」してもらうこと。細部まで手を抜かず、丁寧に、徹底的に「作り込む」こと。
忘れてはならないのは、本は、単に売り上げや人気だけを争うために作るものではないということだ。きちんと作られた本には、それぞれ果たすべき役割があって、届けられるべき人がいる。作り手の「才能」を見せつけるために本はあるのではない。作り手が伝えたいと思っている大切なことを伝えるために、本はある。