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記憶と言葉

昨日は池袋に出かけて打ち合わせ。夏に発売される予定のムック本に、ザンスカールのチャダルについての写真と文章を寄稿することになった。考えてみると、ラダックやザンスカールについての写真と文章を媒体で発表するのは、結構ひさしぶりだ。ここ最近はスピティが多かったし。

で、昨日今日で写真をセレクトし、レイアウトラフを作り、原稿を書きはじめてみたのだが‥‥いやあ、書けるね。いくらでも書ける(笑)。ずいぶん前の出来事だけど、自分の中で圧倒的に鮮烈に焼きついている記憶があるから、それを必要に応じて言葉に置き換えていけばいい。「ラダックの風息」を作った時も、この時期のことを書くのは本当に愉しかった。

やっぱり、書かれるべき出来事には、しぜんと記憶と言葉が宿っていくのだと思う。

丑三つ時の妄想

新しいアイデアというのは、ふとしたはずみで出てくるものだが、僕の場合、どうもそのタイミングが丑三つ時に集中している。

そろそろ寝るかとパソコンを閉じ、歯を磨いて、布団をめくって中に潜り込み、スヤァ‥‥となりかけたとたん、文字通り、ぽん、と音を立てるようにしてアイデアが浮かんでくるのだ。それは、本や雑誌記事のテーマだったり、タイトルやキャッチコピーの具体的な文言だったり、その時々によっていろいろなのだが。

薄れゆく意識の中で浮かんできたこのアイデア、翌朝もまあ覚えてるだろうとそのまま寝入ってしまうと、僕はまず間違いなく忘れてしまう(苦笑)。なので、睡魔に抗うようにしてむくりと起き上がり、暗闇の中を居間のデスクまで歩いていって、ブロックメモにそのアイデアを殴り書き。それで安心して寝床に戻る。

で、翌朝、あらためてそのメモを見返してみると、なんでこんなのが珠玉のアイデアに思えたんだろう、という場合がほとんど(苦笑)。でも、昨日の丑三つ時に思いついたアイデアは、今朝になって見返しても、そんなに悪くない。うまく形にできるといいな。こんな風にして僕は本を作っている。

再起動

急な打ち合わせが入り、夕方、赤坂へ。3時間近くみっちり話し合いをして、目下最大の懸案事項が、ようやく動き出した。

思い返せば、3月中旬からGW前半まで、平日はほぼすべて取材で埋まり、休みの日もひたすら原稿書きに追われるというきつい日々だったのだが、GWが明けてからは、嘘のようにぱったりと無風状態になった。前々から仕込まれている仕事はいくつもあったのだが、そのどれもが揃って一時停止に陥って、いきなりヒマになってしまったのだ。こういう激しい波があるから、フリーランスはつらい。

まあでも、そんな無風状態も終わり。今日打ち合わせた案件以外にも、いろいろ動き出しそうだし。ようやく再起動がかかった今、夏から秋に向けて、がんばらねば。

祖父が見ていた色

だいぶ前に亡くなったのだが、母方の祖父は、画家だった。学校で美術の先生の仕事をしつつ、大きな展覧会に入選したり、個展を開いたりしていた人だった。

僕を含めた親戚の子供たちは、時々その祖父のところに集められて、ちぎり絵を作ったり、郊外に写生に行ったりしていた。僕自身は絵が得意なわけでもなかったけれど、ある時、場所は忘れてしまったが、どこか屋外で写生をした時の出来事は不思議によく憶えている。

「高樹、あの木の幹は何色に見える?」
「茶色だよ。だって、木だし」
「本当にそうかな? よく見てごらん。あの幹の影は、藍色に見えないかな?」

そう言って祖父が、水で薄めた藍色を幹の部分にさっとのせたので、まだ小さかった僕はびっくりしたのだった。

空は水色。雲は白。木の葉は緑で、木の幹は茶色。世界の色はそう決まっているのだと、あの頃の僕は思っていた。でも、世界はそんな風には決まっていない。光も色も、音も、匂いも、手ざわりも、その時々ですべて違っている。世界を写し取って誰かに伝えるには、ありのままの姿を感じ、捉えなければならないのだと、祖父は僕に言いたかったのかもしれない。

あれから長い年月が過ぎ、僕は何の因果か、絵ではないけれど、写真や文章を仕事にするようになった。うまく撮ったり書いたりできなくて悩んでいる時、ふと、この出来事を思い出すことがある。そう、この世界は、何一つ、決まってなどいないのだ。

「本気を出す」ということ

出口の見えない出版不況の今、多くのフリーランスのライターやフォトグラファーにとって、厳しい状況が続いている。そんな中でも、新たにライターやフォトグラファーになりたいという人は世間には結構多いらしい。

たとえばライターでは、ウェブライターとかネットライターとかいう肩書きで、1文字0.5円とかそれ以下という異様に安い報酬で文章を量産している人も少なくないのだとか。報酬はお小遣い以下でも、それでライターを名乗れるのなら、ということなのだろうか。まあ、どんな仕事を選ぶのかは人それぞれだけど、正直言って僕には、1文字0.5円でしか扱われない仕事の積み重ねが、ライターとしての明るい未来につながっているとは到底思えない。そうやってただ無闇に量産されて忘れられていくだけの言葉に、はたしてどれほどの存在価値があるのだろう?

それでも、どうにかして真っ当なライターに、あるいはフォトグラファーになりたいという人は、一度、何らかの形で「本気を出す」べきではないかと思う。仕事の場で実現できるのが一番いいけれど、それが叶わないなら、自分のサイト上とかでも構わない。自分で自分に言い訳ができないくらい、本当の本気で、自分にとって一番大切な物事について文章を書いてみる、あるいは写真を撮ってみる。そうして全身全霊をかけて心血を注いで文章や写真に取り組んで、それを人に見てもらえば、自分自身の実力がどれほどのものかよくわかるし、その時点での自分の欠点も見えてくる。何より、なぜ自分は文章を書きたいのか、あるいはなぜ写真を撮りたいのかがわかってくる。

ライターになりたいからとか、フォトグラファーになりたいからとかではなく、何を書きたいか、何を撮りたいのか、どこかで一度本気を出して、周囲と自分自身に問いかけてみるといいんじゃないかなと思う。