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100パーセントと120パーセントの差

僕は何かの仕事に取り組む時、力を100パーセント出す場合と、120パーセントまで振り絞る場合がある。以前、人にこう話すと、「普段から常に120パーセントの力を出す心構えでは臨めないの?」と返されたことがあった。うーん、違うんだな。そうじゃない。少なくとも僕にとって、100パーセントと120パーセントとの間にある差は、心構えで埋められる類のものではない。

普段の仕事……フリーライターとしての取材と執筆、雑誌記事やガイドブック制作のための撮影、それらをまとめるための編集作業などでは、絶対に気を抜かず、もちろん手も抜かず、万全の仕上がりを目指して、100パーセントの力を出す。この仕事をしている身としては、当然の姿勢だ。そうでなければ、あっという間に信頼を失い、食いっぱぐれてしまう。

では、そこからさらに、120パーセントまで力を振り絞ろうとするのは、どんな時か?

これまでの自分をふりかえっても、そこまでとことん追い詰められた経験は数えるほどだが、そういう時は……その仕事自体が、自分自身のとても個人的な部分にある動機と、分かち難く結びついていた。その仕事に取り組む時は、普段の力を全部出すのはもちろん、自分自身の個人的な部分、弱さや情けなさも含めて、否応なく向き合い、自問自答をくり返さなければならなかった。ひとことで言うと、魂を自分で削っていくような、そんな感覚。

100パーセントの時も、120パーセントの時も、目の前の作業に対して出している力自体は、ほぼ同じだと思う。20パーセント分の差は、自分自身と向き合って戦うかどうかの差。その戦いの結果は、目に見える形で現れるとは限らない。でも、どこかに何かしら、寄り添う影のように残る。

そういう、自分自身と戦わなければ後悔するような仕事とは、生きている間に、たまにめぐり会う。

選べないタイミング

インドに出発するまであと10日ほどという今の段階になって、急に国内での仕事が立て込みはじめた。取材を伴わないけれど急ぎの書き仕事がいくつかと、来週後半には日帰り取材で福島へ。出発直前、ギリギリまで仕事に追われることになりそうだ。

ほとんどのフリーランサーは、好きな種類の仕事を好きなタイミングで選べるほど、自由ではない。長い付き合いの取引先からの依頼は断りづらいし、そもそも働ける時に少しでも働いておかないと、このご時世では僕らは食っていけない。しかし仕事の依頼というやつは、重なる時にはこれでもかというくらいとことん重なるし、来ない時にはあきれるくらい無風状態になってしまう。なかなかうまくいかないものである。

まあ、粛々と、やれる範囲でやっていくしかないな。ハタラキマス。

さすがに眠い

昨日は午後から渋谷で、夏のスピティツアーとザンスカールツアーの細かい打ち合わせ。いろいろ確認できたし、現地の貴重な資料もいくつかお借りできたので、ありがたかった。その後、夕方から綱島のポイントウェザーで飲み会。これも楽しい時間だった。

帰りはそこまで遅くならなかったものの、家に戻って雑用を片付けたりしてるうちに、寝たのは夜の2時過ぎ。今日は朝イチで大学案件の取材が入っていたので、3時間くらいの睡眠時間で起きなければならなかった。さすがに眠い。取材先は新宿から小田急線で1時間以上離れた場所なのだが、うっかり熟睡すると小田原まで行ってしまいかねないので、音楽を聴きながら我慢。駅前のマクドナルドでコーヒーを飲んでカフェインをキメ、どうにか取材を乗り切る。

しかしまあ、疲れた。今夜は、たっぷり寝よう……。

鉛筆をナイフで削る

僕の仕事机の上のペン立て(古い陶製のシェービング・カップに文具を詰め込んでいる)には、鉛筆が一本、刺さっている。いつ、どこで手に入れたのか忘れてしまったが、アンケートか何かを記入する時に手渡されて、「差し上げますよ」と言われて、そのまま持ち帰った鉛筆だと思う。

普段、仕事で使う筆記具はシャープペンかボールペンなのだが、ブロックメモにささっとメモを書く時(買い物リストや、家から取材先までの乗り継ぎ時刻など)には、その鉛筆をよく使っている。いつのまにか、少しずつ愛着も湧いてきている。

鉛筆なので、使っていると当然、芯がちびて丸くなってくる。鉛筆削り器は今うちにはないので、芯がちびてきたら、カッターナイフで削る。小学生の頃、鉛筆をナイフでうまく削れるようになりたくて、一時期ちょっとハマっていたことを思い出す。ひさしぶりでも指先は意外と覚えているのか、今でも意外ときれいに削れる。芯がぽきっと欠けないように、最後にちょっと用心深く仕上げたりして。

最近の小学生は、ナイフで鉛筆を削ったりしているのかな。してないのかな。楽しいよ、やってみると。自分で削った鉛筆を使うと、ほんのちょっと、勉強するのが楽しくなると思う。

「作品」とは呼べなくて

僕の仕事は、文章を書いたり、写真を撮ったり、それらを編集したりして、本や記事を作ることなのだが、そうして書いたり撮ったりして作り上げたものを、自分で「作品」とは呼んでいない。それぞれ「文章」「写真」「本」「記事」と呼んでいる。

「作品」という言葉には、「自分自身の内から湧き出てくる何かから作り上げたもの」というイメージが、少なくとも僕の中にはある。そのイメージと照らし合わせて考えてみると、僕の文章や写真は、僕自身の内にあったものだけから作り出してはいない。いろんな場所に行って、見て聞いて感じたものを、「書かせてもらっている」「撮らせてもらっている」「それで本や記事を作らせてもらっている」という感覚に近い。そうやって作らせてもらったものを自分で「作品」と呼ぶのは、とてもおこがましい気がしてしまうのだ。この先、死ぬまでに一冊くらい小説を書いたりすることもあるかもしれないが、僕の場合、それすらも「作品」と呼ぶには気恥ずかしくなってしまうと思う。

たぶん僕は、「作り手」ではなく、根っからの「伝え手」気質なのだと思う。