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そろそろ準備を

申請を依頼していたインドビザが、無事に発給されたという報せが届いた。毎度のことながら、インドという国に関しては、何が起こるかわからない、何が起きても不思議ではないので、万全を期していても、どきどきする(苦笑)。

Eチケットもこの間受け取ったし、渡航期間中の海外旅行保険の申請も、さっきオンラインで済ませた。冷蔵庫の中の食材や調味料も計画的に減らしている。この後は、いつものラダック旅行向け荷物のパッキングリストを今年の旅の内容に合わせてアップデートして、常備薬や消耗品など足りないものをチェックし、時間のあるうちに買い揃えておく。出発当日の空港までのバスのチケットも予約しておかねば。現地の知り合いにインド到着後のこちらの計画を連絡して、日本の知り合いや仕事の取引先にもしばらく不在にする旨を連絡して……。

出発まで、あと2週間と少々。ふう。

さすがに眠い

昨日は午後から渋谷で、夏のスピティツアーとザンスカールツアーの細かい打ち合わせ。いろいろ確認できたし、現地の貴重な資料もいくつかお借りできたので、ありがたかった。その後、夕方から綱島のポイントウェザーで飲み会。これも楽しい時間だった。

帰りはそこまで遅くならなかったものの、家に戻って雑用を片付けたりしてるうちに、寝たのは夜の2時過ぎ。今日は朝イチで大学案件の取材が入っていたので、3時間くらいの睡眠時間で起きなければならなかった。さすがに眠い。取材先は新宿から小田急線で1時間以上離れた場所なのだが、うっかり熟睡すると小田原まで行ってしまいかねないので、音楽を聴きながら我慢。駅前のマクドナルドでコーヒーを飲んでカフェインをキメ、どうにか取材を乗り切る。

しかしまあ、疲れた。今夜は、たっぷり寝よう……。

ただ一人で

自分は、社交的なタイプの人間ではない、と思う。

ライターとしてインタビューの仕事などをそれなりに長い年月やっているので、他の人とのコミュニケーションが苦手というわけではない(苦手だったらこんな商売やってられない)。仕事柄、口もそれなりに回るので、僕に対して「交友関係の広い人」というイメージを持っている人も、周囲には割といるのかもしれない。でも、実のところ、僕は友達付き合いのいい人間ではない。一人きりでいるのを寂しいと感じる人間でもない。

自分のことを知っている人間が、誰もいない場所へ行きたかった。自分が知っている人間が、誰もいない場所へ行きたかった。そういう場所で、ただ一人でいたかった。

子供の頃から、ずっとそうだった。それは今も変わっていない。たぶん、だから、旅をするようになったのだと思う。

「タレンタイム 優しい歌」

東南アジアの国々の中で、マレーシアはまだ旅したことのない国の一つだ。正確には、飛行機の乗り継ぎでクアラルンプール空港には数回降り立っているが、イスラームを国教とする国なので、空港内でビールを飲める場所を探すのに苦労した記憶がある。そういう自分にとって未知の国で作られた映画、わずか6年間の活動期間の後に急逝したヤスミン・アフマド監督の遺作「タレンタイム」。予告編を観た時から「これは」と感じるものがあった。

「タレンタイム」には、多民族・多宗教国家であるマレーシアならではの複雑な事情を背景に持つ若者たちが登場する。イギリス系とマレー系のクォーターでムスリムの少女ムルー。インド系のヒンドゥー教徒で聴覚障害者の少年マヘシュ。末期の脳腫瘍に苦しむ母親の看病を続けるマレー系ムスリムの少年ハフィズ。転校生のハフィズに成績トップの座を奪われたことに悩む、中華系の少年カーホウ。年に一度の音楽コンクール、タレンタイムの日に向けて、それぞれの日々の物語が綴られていく。

何気ない日々の情景や会話のやりとりが淡々と描かれる様子は、この間観た台湾のエドワード・ヤン監督の作風を思い起こさせる部分もあるが、「タレンタイム」には穏やかに包み込むような監督のまなざしの暖かさを感じる。時折、リアリズムの枠をあえて飛び越えたような人物や演出が登場したり、たまにインド映画を思わせるノリがあったりするのも面白かった。何より、タレンタイムのためにムルーとハフィズがそれぞれ披露する「Angel」と「I Go」の2曲が、本当に素晴らしい。聴くだけで涙腺にぐっとくる。

民族や宗教、境遇、障害など、人と人との間はいろんな種類の見えない壁で隔てられている。でも、そうした壁は、けっして乗り越えられないものではない。互いにわかりあい、赦し合い、支え合うことで、辿り着ける未来はあるはず。監督が伝えたかったのは、そういうメッセージだったのだと思う。

「牯嶺街少年殺人事件」

台湾のエドワード・ヤン監督が1991年に発表した映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」。当時、日本では短縮版で公開されたものの、それ以来ソフト化されることもないまま、幻の作品となっていたという。その作品がデジタルリマスタリングされ、オリジナル版の尺で公開された。3時間56分。観始めたら、あっという間だった。まるで、映画の中に飲み込まれてしまったような気分だった。

この映画は、1961年に台北で起きたある殺人事件をモチーフにしている。当時の台湾では、第二次大戦後に中国から台湾に移住してきた外省人たちが、大陸に戻りたくても戻れない焦燥感にかられながら、穏やかながらも鬱々とした日々を過ごしていた。彼らの子供たちもまた、将来の見えない行き詰まり感に苛まれて、徒党を組んで他のグループと争い合っていた。そんな中でも、どちらかというと真面目だった一人の少年が出会った、一人の少女。そこからすべてが軋みはじめる。

少し前に見た同監督の「台北ストーリー」は、良い作品だなと思ったものの、観終えた後に、何か、もやっとする後味が残っていた。この「牯嶺街少年殺人事件」は、そこからさらに突き抜けて、監督自身が撮りたかったものを徹底的に撮り切った、そんな感触が伝わってきた。一切の感傷を排した冷静なまなざしで、一つひとつの場面が丁寧に描かれていく。当時の台湾が抱えていた社会の歪み。若さゆえのみずみずしさと危うさ。何気ない日常の中に突如現れる闇。激しい雨。血塗られた刃。

「私を変える気? この社会と同じで、何も変わらないのよ」

観終えてしばらくたった今も、映像と言葉の断片が頭の中で渦巻いて、うまく整理できないでいる。美しく、残酷で、どうにも忘れがたい映画だった。