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だし巻き卵、そしてインディア

一昨日の夜は、ラダックのツアーでお世話になっているGNHトラベル&サービスの事務所で飲み会。三井昌志さん、小林尚礼さん、藤木ケンタさん、中田浩資さんという錚々たる顔ぶれ。今回の宴は、中田さんが得意料理のだし巻き卵をひたすら焼きまくって、皆にふるまうという趣向だった。大葉とじゃこ入り、まるごと明太子入り、穴子入り、そしてプレーンなだし巻き卵。中田さんの手際はどれもお見事で、ふわっふわのだし巻き卵は本当においしかった。ごちそうさまでした。

そして昨日は、日本橋で開催されたインド関連本の販売イベントと、矢萩多聞さんたちが出演するトークイベント「ぽかーんインディア」へ。4人の出演者がそれぞれインドにまつわる「ぽかーんとした話」をするイベントだったのだが、面白かった〜。特に多聞さんの「イングリッシュティーチャー」の話は、個人的に強烈にツボに入った。インドという国、本当に底が知れない……。

二日続けて、たくさん笑うことができて、なんだか気分がせいせいとしている。

その後のインディア

数週間前に書いた、インドのシムラーという街のホテルをBooking.comで予約したら「デポジットで1泊分の全料金をこの口座に入金しなさい、でなければキャンセル扱いにします」と、インド国内のパンジャブ銀行の口座情報がメールで送られてきた件の、その後。

とりあえずこちらからは「こっちは日本だし、銀行に送金するのは無理。もしそちらの都合でキャンセルするなら連絡してください」というメールを、間を置きながら数回送った。その間、Booking.comの方でも空室情報をウォッチしていたのだが、僕が予約していたらしき部屋が空室になり、やがてそれが埋まった頃、ホテルからメールが来た。「デポジットが払えないなら部屋をキープできないので、そちらでBooking.comからキャンセルしてください」と。案の定である。

で、こちらからBooking.comでそのままキャンセルすると、ややもするとキャンセル料がかかってしまうので、Booking.comにある「キャンセル料の交渉」という項目から再度連絡し、「ホテル側からキャンセルしてくれと言われたので減額してください」とディスカウントを交渉。結果、キャンセル料は無料になった。まあ、当たり前といえば当たり前なのだが。

交渉に時間がある程度かかることを予想して、アゴダの方からシムラーの別のホテルを予約しておいたので、ことなきを得た。6月から7月にかけて、シムラーの宿は本当に混み合うし、高くなるので、危ないところだった。

しかし、この夏のインドとの戦いは、まだまだ序の口だ……。

映画、二連チャン

昨日は渋谷で、映画を立て続けに2本観た。

最初に観たのは、南インド映画祭で公開されているタミル語映画「テリ スパーク」。小さな娘と二人暮らしの気弱そうな父親は、かつては凄腕の警官で、娘を守るために過去の仇敵と戦う、というストーリー。アクションは過激なまでに派手だし、ダンスシーンは華やかだし、南インドの娯楽映画としては申し分ない出来。ただ個人的には、仇敵たちへの仕打ちの仕方があまりにも直截的すぎる気がして、ほんのもうちょっと、ひと工夫できていればさらによかったかも、と思った。

次に観たのは、エドワード・ヤンの「台北ストーリー」。1980年代、急速に変貌しつつあった台北の街で、それぞれの人生に行き詰まりを感じていた人々が、どうにもできずにあがくうちに、さらに行き詰まり、思いもよらない(あるいは予期された)結末に行き着く。悲しく、やるせない物語。しかし映像は本当に美しい。ほんのささやかな場面でも、完成された写真作品のように丁寧に気を配って撮っているのがわかる。

昼から夜まで映画漬けの、幸せな一日だった。座りすぎで尻が痛いけど(笑)。

写真を通じて世界を愛するということ

昨日、渋谷で開催中のソール・ライター展を見た後、雑誌か何かで「ソール・ライターのような写真を撮るためのテクニック」という趣旨の記事を見かけた。構図の選び方、キーカラー、鏡やガラス、雨や雪の日、覗き見的なアングル……そんな内容だった気がする。もし、ソール・ライター自身が存命で、その記事に目を通したとしたら、たぶん例の調子で、フン、と鼻で笑うだろう。

もし、本当の意味で、彼のような写真を撮ろうとするなら、ニューヨークのイースト・ヴィレッジで、54年間、毎日、写真を撮り続けるしかない。小手先のテクニックと写真の本質は、まったく別のところにある。

完璧な構図、完璧な光線、完璧な配色、決定的な瞬間。すべての要素が完璧に計算しつくされた写真だから喚び起こせる種類の感動があることは否定しない。でも、少なくとも僕の目から見て、ソール・ライターがイースト・ヴィレッジで54年間、日々淡々と撮り続けてきた写真の一枚々々は、けっして狙いすまして撮られた完全無欠の作品ではないと思う。むしろ不完全で、微妙に揺らいでいて、思いもよらない何かが写り込んでいたり、逆に見切れていたり。理屈や計算では説明しきれない部分に、彼の写真の本質がある。

現実の世界は、いつも不完全で、人の思うようにはならないものだ。彼は、写真を撮ることを通じて、世界を愛した。ただただ、イースト・ヴィレッジの日常を、ありのままの世界を、愛していたのだと思う。

運命の巡り合わせ

運命の巡り合わせ、という言葉がある。その人にとって、偶然という一言で片付けるには不可思議に思えるような出来事がいくつか続いた時に、よく使われる言葉だ。

僕は数年前から、とても個人的な動機で、アラスカを取材をしている。その動機が生まれた背景には、いくつかの出来事があったのだが、それらについて近しい人に話すと、ほとんどの人が口を揃えて「それは運命の巡り合わせじゃないですか」と言う。確かに、そう言いたくなるのもわかるような、不可思議としか言いようのない符合が(20年以上前から)あった。でも僕自身は、それらの出来事を「運命の巡り合わせ」という言葉であっさり片付けてしまいたくはない、という気持でいる。

この世界は、目には見えない運命というものに支配されてなどいない。人が生きていく中で起こるたくさんの出来事の中から、何を感じ、何を選び、何をするのかは、その人自身が決めることだ。そうして選んだ道は、時には、もしかするとどん詰まりになるかもしれないけれど、そうなったとしても、僕は後悔はしない。自分で考えて、選んだ道だから。

運命なんか、アテにして、たまるものか。