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変わらない味

午前中、有明方面で取材。終わった後、銀座に向かう。三井昌志さんの写真展がキヤノンギャラリーで開催中だったので。ちょうど関健作さんもいらしてて、3人でしばらく話をしたり。

銀座で何かおひるを、と思って、そういえば前に閉店したニューキャッスルが、新オーナー&別の場所で復活していたはずと思い出し、行ってみた。店の雰囲気は前とはずいぶん変わっていた(そりゃそうだ、前の古い建物の雰囲気は独特すぎた)が、味は昔食べたあの辛来飯(カライライス)と同じだった。

その後は神保町に移動し、これまた昔からある喫茶店、さぼうるで、生いちごジュースを飲んで休憩。さかいやスポーツでアウトドア用のシャツやアンダーウェアを物色し、早めの夕食に、これまた古株のスヰートポーヅで餃子中皿定食。

今日行った店で口にしたのは、どれもこれも、昔から変わらない、懐かしい味の料理だった。流行に乗ったり、奇をてらったり、世の中にはいろんな食べ物を出す店があふれているけれど、ずっと変わらない味を作って出し続け、それを支持し続ける人も大勢いるというのは、やっぱりすごいことだと、しみじみ思う。

仕事でやさぐれてる人への処方箋

春だからというわけでもないが、こんな話をば。

仕事柄、いろんな人に会う。取材先の人はもちろん、仕事を依頼する側の人や、同じ業務に携わる人、行く先々でお世話になる人など。はつらつと勢いに乗っている人もいれば、壁にぶち当たって悩んでいる人もいる。仕事に対して、すっかりやさぐれてしまっている人もいる。

職場環境が不当かつ劣悪であったりするような場合を除くと、仕事に対してやさぐれてる人は、大きく二つのタイプに分かれる。一方は、「どうせ自分は、能力のない、ダメな人間だから」と、自分自身をあきらめてしまっている人。もう一方は、「こんなはずじゃなかった。自分はもっとやればできる人間なのに」と、自分の能力を過信してしまっている人。後者に関しては、僕も二十代の頃にかなりその兆候があったので、今もそういう人に遭遇すると、ひりひりした気分になって、いたたまれない(苦笑)。

前者も後者も、そういう人とうまく付き合うのは難しい。前者の人に何の根拠もなく「そんなことない。がんばればきっとうまくいきますよ」とは言いづらいし、後者のような人に「いや、今のあなたにはそこまでの能力はないですよ」とも指摘しづらい。良い影響力を持つ上司の方などがいれば話は別かもしれないが……。

で、ほとんどの場合、前者の人も後者の人も、その時点での仕事に対する姿勢は、かなりなげやりになってしまっている。一つひとつの作業は雑になり、一人ひとりに対する接し方も雑になる。周囲からの評価はますます下がる。それに嫌気がさして、ますますなげやりになる、の無限ループ。そういう人が職場を変えてみたとしても、悪循環から抜け出せる可能性はけっして高くはない。

仕事でやさぐれてる人への処方箋は、たぶん、一つしかないのだ。

あまり先のことばかり考えず、その時点で目の前にある作業に、一つひとつ、きちんと丁寧に取り組んでいくこと。仕事関係で会う人、一人ひとりに、きちんと丁寧に接していくこと。一つひとつ、一人ひとり、小さな結果をもう一度最初から丹念に積み上げていく。たとえそれが、その時は「つまらない」と思うことだったとしても。そうした積み上げがすぐに周囲からの評価を変えるわけではないけれど、けっして無駄にはならないし、その先に進んだ道で大きな変化があった時、きっと確かな下支えになる。僕自身も、フリーランスに転身した頃、それに近い経験をしたから。

積み上げることを怠って、やさぐれているだけの人には、たぶん、いつまでたっても、出口は見えてこない。

もしも明日人生が終わるとしたら

飲み会の席で、こんなことを訊かれた。

「もしも明日人生が終わるとしたら、最後の日、何をしたいですか?」

さて、何をしよう‥‥と考えてみると、意外なほどすんなりと、自分の場合はこれだな、という答えが出た。

その時点で手元にある、未発表の写真や文章。それを残された24時間(せめてそのくらいの時間はもらいたい)を使って、できるだけ選んで整理して、何らかの形で発表できるようにまとめる。最低限の準備しかできないだろうけど、まあそれは仕方ない。まとめた素材は、信頼できる人に「すみませんが、これをお願いします」と託す。

その後、もし時間が少し残っていたら、ビールを飲みながら何かおいしいものが食べたい。営業時間内だったら、リトスタがいいな。家から近いし。飲み食いし終えたら、家に帰って、まあこんなものかな、と思いながら、その時を待つ。

「そうして発表されたものが読者にどんな風に受け取られるか、知ることができなくてもいいんですか?」と訊かれた。反応を知る時間がないのは確かに残念だけど、褒めてもらうのが目的ではないから。伝えられれば、それでいい。

実際に、そんな風に終えられたら、いいかもな、と思う。

取材抜きの旅

この間のトークイベントの打ち上げの席で、「取材を抜きにして、世界のどこへでも旅に行けるとしたら、どこに行きたいですか?」と訊かれた。

ふりかえってみれば、たぶんここ10年くらいの間、完全に取材を抜きにして海外を旅したことは、一度もなかったと思う。依頼される形での旅はもちろん、完全に個人的な動機からの旅でも、目的は取材だった。現地を旅しながら、写真を撮り、細かくメモを取り、日本に戻ってから何らかの形でまとめて発表する。本や雑誌、Webサイト、写真展、トークイベント。いつのまにか、取材をしながら旅をすることが、当たり前のようになっていた。

取材とか仕事とか、いっさい抜きにして、旅に出る。それは気楽で楽しいかもしれない‥‥と思いかけて、はたと気付いた。今の僕にとって、取材をいっさいしない旅というのは、とても居心地の悪い、つまらない時間になってしまうだろうということに。

旅をしながら、見て、聞いて、感じて、撮って、書いて、それを誰かに伝える。そういうことをひっくるめた全部が、僕にとっての旅なのだと思う。

悪気はなかった

たとえば、の話である。

ある人が善意で募金活動をしていた。その人が配っている手製のチラシに、なぜか、僕が昔撮った写真が使われていた。どうやら、その人がネットで画像検索してどこからか見つけたものを、チラシにするのに具合がいいからと、そのまま使ってしまったらしい。

「それは僕の写真です」と僕はその人に言う。善意の募金活動でもあるし、掲載料を払えとは言えないが、それでも「無断で使用するのは困ります」とは言わなければならない。その写真を撮影した者として。

「すみませんでした。悪気はなかったんです」とその人は言う。別の写真に差し替えます、とも。僕には何だかもやもやした気持ちが残る。細かいことにツッコミを入れて、意地悪な仕打ちをしてしまったような。

そういう場合の、そもそもの解決策。

たとえ善意の目的だろうと、無償の奉仕だろうと、ネットで拾った画像を使って何かを作ろうなんて発想をするな。必要な素材は、それを所有する人間に「使わせてください」と、頼め。

考えてみれば、当たり前のことだ。その当たり前の手順を踏めない人が、世の中には多すぎる。