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寒暖の差

タイでの取材旅行の終盤、首都バンコクまで辿り着いた時に、鼻風邪をひいてしまった。

それまでの休みなしの取材漬けの日々による疲労の蓄積も影響したとは思うが、一番の要因は、バンコクでは至るところで冷房が効き過ぎていたからだと思う。BTSやMRTなどの車内はまるで冷蔵庫のような寒さで、駅で降りるたびに眼鏡が曇ってしまうほどだった。そうした寒暖の差に、身体がついていけなかったのだろう。

寒暖の差といえば、今のバンコクと東京の気温差も相当なものだ。向こうは30℃以上、こっちは15、6℃。ほぼ倍。全身の汗腺がすっかり開ききって、体脂肪もこそげ落ちてしまっている今の自分には、なかなかつらい。まずはしっかり休養して疲労を抜きつつ、体調を整えようと思う。それにしても、際限なく眠い。

電車の中で

バンコクから深夜便で羽田空港まで戻ってきて、モノレールと電車を乗り継いで、家に向かっていた時の出来事。

浜松町でモノレールを降り、東京駅から中央線に乗り換えるため、京浜東北線に乗った。土曜の朝の車内、席は埋まっていて何人か立っている人がいたが、僕の乗ったドアのすぐ横の席はたまたますぽっと空いたばかりで、僕は膝の間に大きな荷物を抱えつつ、その席に座った。僕の左隣には、キンドルで本を読んでいる若い女の人が座っていた。

次の駅で、喪服姿で白髪の老夫婦が乗ってきた。乗ってすぐに「あとどのくらい乗るの?」「20分くらいかな」という二人の会話が聞こえたので、僕は立ち上がって荷物を担ぎ、席を譲った。老夫婦の奥さんの方が腰を下ろし、旦那さんはその前に立って吊革につかまった。

僕のいた席の左隣でキンドルを読んでいた女の人は、明らかに老夫婦のことに気づいていた。横目でチラッと二人を見ていたから。でも彼女は、微動だにしなかった。吊革につかまってよれっている白髪の男性が目の前にいるのに、自分はキンドルを読みふけっていて彼の存在に気づいていない、というふりをしていた。

すると次の駅で、その女の人の左隣に座っていた人が降りていった。彼女の左隣は空いたままだ。ちょっと腰を上げて30センチほど移動すれば、老夫婦は並んで席に座れる。でも彼女は、またしても微動だにしなかった。肩を妙に縮こまらせて、ひたすらキンドルを読みふけっている、というふりをしていた。

その女の人の一挙手一投足を目の前で見ていた僕は、何というか、驚きを通り越して、呆れてしまった。なぜ彼女は、最初の時もその次も「自分は何も気づいていない」というふりをしたのだろう。最初の機会に気づかないふりをしてしまったから、次の機会に席をずれれば、自分が気づいていたことがばれてしまうとでも思ったのだろうか。わからない。が、何にしても、彼女の視野とものの考え方は、とても「狭い」状態だったのかなあと思う。

タイの電車の車内では、老人や小さい子供が乗ってくると、若い人たちが先を争うようにサッと立ち上がって、さらりとにこやかに「お座りになってください」と言って席を譲る。それはとても自然で清々しく、やらされてる感のかけらもない、気持ちのいい光景だ。敬虔な仏教国の人々ならではの、心に根ざしている教えもあるのだろう。

でも、東京では、電車にそういう身体の弱い人が乗ってきても、見て見ぬふり、気づかないふり、をする人が、前にも増して多くなった。みんな、席に座ってスマホやキンドルをいじってないと、死んでしまうとでもいうのだろうか。

みっともないよ。そういうの、ほんとに。

「君の名は。」

予想以上の大ヒットで映画館がずっと混雑していたのと、ここしばらくのせわしなさで、なかなか見られないでいた新海誠監督の「君の名は。」を、ようやく観に行くことができた。

千年ぶりに現れた彗星が近づきつつある日本。とある山奥の田舎町に住む高校生、三葉は、不思議な夢を見るようになった。東京にいる見知らぬ少年となって、彼の生活をまるで現実のことのように体験する夢。一方、東京で暮らしている高校生、瀧も、山奥の町にいる見知らぬ少女になってしまう夢を見るようになった。やがて二人は、実際に互いが入れ替わる現象がくりかえされていると気付く。まだ出会ったことのない、出会うはずもなかった二人が、不思議な形で結びつけられた意味は……。

新海監督はもともと独自の世界観と個性的な作風を持っていた方で、これまでの作品は必ずしも万人受けするものとは言い切れないところがあった。SF寄りの作品でも、現実世界寄りの作品でも、大切にしていたのに失ってしまったものを取り戻せない切なさ、やりきれなさのような後味を残す作品が多かった。でも、この「君の名は。」は、そこから立ち上がって、運命に抗ってさえ、大切なものを取り戻すためになりふり構わず駆け出していくような、そんな作品になっていたと思う。

作中には、これまでの新海監督の作品(CMも含めて)のセルフオマージュとも言える要素が数多く盛り込まれている。逆に言えば、過去のそうした蓄積がリブートされてエンターテインメント作品として最適なバランスで昇華されたのが「君の名は。」と言えるのかもしれない。

とりあえず、このピュアで王道なストーリーを素直に楽しめるくらいには、自分に人並みにノーマルな感情が残っていることにほっとしている(笑)。観客は圧倒的に10代、20代が多いのだそうだ。ティーンエイジャーのうちにこういう映画を観ることのできる人は、幸せだと思う。まだの人は、ぜひ映画館へ。

長雨の間に

帰国、取材、原稿、編集、トラブル対応、写真展、オフ会、イベント……ここしばらく、本当にあれこれあたふた振り回されて、さすがに疲れがたまっていたので、今日は完全休養。届いた仕事関係のメールにだけ返事をして、自分からは何もしない。写真の現像や原稿書きもしない。とにかく休む。

じめじめとした長雨が続いてる間に、日が暮れる時刻がだいぶ早くなった。外ではいろんな種類の秋虫が鳴いている。いつのまにか、秋の入口にまで来てしまった。

……1週間後には、約4週間のタイ取材が始まる。熱帯で夏に逆戻り。やれやれ。

かけ違えたボタン

アラスカから日本に戻ってきて10日ほど経ったが、とにかくやたらと眠い。ずっと眠気に襲われている気がする。

ただ、その眠気に従って横になってみても、浅い眠りのまま、割とすぐに目が覚めてしまう。ぐっすり熟睡、という感じにはならない。それで起きて、しばらくすると、また眠くなる。横になる。でも浅いまま、すぐ目が覚める。

アラスカの小屋で一人ぼっちだった時、夜の9時を過ぎて太陽の光が完全に消え去ると、あたりは真の闇に包まれた。窓から外を見ると、海の向こうの遥か彼方に、シトカの街の灯がほんのかすかに見えていた。波の音、風に揺れる梢の音、虫の声。エアマットを敷いた板張りのベッドで、僕は寝袋にくるまっていた。不思議なくらい、ぐっすりと、よく眠れた。孤独も不安も、何も感じなかった。ただ、静寂の中に身を浸していることが心地良かった。

あの島から戻ってくる時に、どこかで、ボタンをかけ違えてしまったのかもしれない。どっちが間違っているのかも、僕にはわからないけれど。