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にじみ出るもの

昼の間、部屋で原稿を書く。長めのインタビュー原稿をどうにか形にできたので、ほっとする。

夕方、都心へ。恵比寿でラーメンを食べ、ヴェルデでコーヒーを飲み、代官山蔦屋書店へ。竹沢うるまさんと旅行書コンシェルジュの荒木さんとのトークイベントを拝聴。途中で竹沢さんが急に僕の名を呼び、会場の全視線に急に振り向かれるという不測の事態に(苦笑)。僕の本を知っている方も何人か会場にいらっしゃって、終了後に声をかけていただいて、恐縮してしまった。

竹沢さんは、自分のメッセージや思いを込めようとして写真を撮ってはいないのだという。あくまで媒介者として、凪いだ水面のようにフラットな心で対峙し、何かに心が反応して波紋が浮かんだ瞬間にシャッターを切る。写真で捉えようとしているのは、自分自身の心の揺れ動きそのものなのだと。

メッセージや思い入れは、意図的に伝えようとしてもたいていうまく伝わらない。作り手や伝え手の個性というものも、意図的に出そうと思うとたいてい失敗する。そういうことを意識せず、自分自身の気持に素直に従って、前へ前へと進み続けていれば、個性や思いや伝えたいことというのは、しぜんとにじみ出てくるというか、見る人や読者がそれぞれに解釈して受け止めてくれる。そうやって委ねるべきものだとも思う。

レベルは大きく違うけれど、僕自身の文章や写真に対しても「ヤマタカさんらしいよね、ヤマタカ節だよね」とは周囲からよく言われる。僕自身は、いったいどのあたりがヤマタカらしいのか、未だにわかっていないのだけれど。笑われてるのかな(苦笑)。

勘が鈍る

昼から八王子方面で、大学案件の取材。この時期の大学案件の取材は珍しいのだが、来週も再来週も、かなりまとまった数の取材予定が入っている。今日は3人の方にインタビュー。

ついこの間までのインドやアラスカ、タイでの日々からの急な揺り戻しで無理もないのかもしれないが、今日はインタビューの勘がなかなか戻らなかった。事前の下準備に従って質問をしたり、相手の答えに合わせて話を繋げていったりは滞りなくできているものの、いつもなら脳内でそれと同時進行で処理している「次の一手をどう打つか」という作戦立案みたいなことが、なかなかうまくできない。ひさしぶりで勘が鈍っていたのか、それとも集中力の問題か。

写真も文章もインタビューも、何事も間が空きすぎてしまうとよくないな、と思う。次はもっとうまくやれますように。

夢見が悪い

昨日は割と早い時間に目が覚めて、近美にトーマス・ルフ展を見に行ったり、神保町をのんびり散歩したりしたのだが、今日はまたなかなか起き出せなくて、昼過ぎまで寝床でぐずぐずしてしまった。そこまでめためたに疲れているとは感じていなかったのだが、今年一年分の疲労みたいなものもあるのかもしれない。

それにしても、最近、夢見が悪い。現実世界では別に何もうしろめたいこともないのに、夢の中では極刑レベルの罪を隠匿していたのがバレてしまったり(苦笑)。昨日の夜は夢の中で、リンパ節か何かがえらいことになったという話だったのだが、起きてみたら何ともなかった。当たり前か。

帰国してからここしばらくの急激な忙しさで、メンタル的に感じてるプレッシャーみたいなものもあるのかな。とりあえず、寝てる間くらいは気分よく過ごさせてください(苦笑)。

寒暖の差

タイでの取材旅行の終盤、首都バンコクまで辿り着いた時に、鼻風邪をひいてしまった。

それまでの休みなしの取材漬けの日々による疲労の蓄積も影響したとは思うが、一番の要因は、バンコクでは至るところで冷房が効き過ぎていたからだと思う。BTSやMRTなどの車内はまるで冷蔵庫のような寒さで、駅で降りるたびに眼鏡が曇ってしまうほどだった。そうした寒暖の差に、身体がついていけなかったのだろう。

寒暖の差といえば、今のバンコクと東京の気温差も相当なものだ。向こうは30℃以上、こっちは15、6℃。ほぼ倍。全身の汗腺がすっかり開ききって、体脂肪もこそげ落ちてしまっている今の自分には、なかなかつらい。まずはしっかり休養して疲労を抜きつつ、体調を整えようと思う。それにしても、際限なく眠い。

電車の中で

バンコクから深夜便で羽田空港まで戻ってきて、モノレールと電車を乗り継いで、家に向かっていた時の出来事。

浜松町でモノレールを降り、東京駅から中央線に乗り換えるため、京浜東北線に乗った。土曜の朝の車内、席は埋まっていて何人か立っている人がいたが、僕の乗ったドアのすぐ横の席はたまたますぽっと空いたばかりで、僕は膝の間に大きな荷物を抱えつつ、その席に座った。僕の左隣には、キンドルで本を読んでいる若い女の人が座っていた。

次の駅で、喪服姿で白髪の老夫婦が乗ってきた。乗ってすぐに「あとどのくらい乗るの?」「20分くらいかな」という二人の会話が聞こえたので、僕は立ち上がって荷物を担ぎ、席を譲った。老夫婦の奥さんの方が腰を下ろし、旦那さんはその前に立って吊革につかまった。

僕のいた席の左隣でキンドルを読んでいた女の人は、明らかに老夫婦のことに気づいていた。横目でチラッと二人を見ていたから。でも彼女は、微動だにしなかった。吊革につかまってよれっている白髪の男性が目の前にいるのに、自分はキンドルを読みふけっていて彼の存在に気づいていない、というふりをしていた。

すると次の駅で、その女の人の左隣に座っていた人が降りていった。彼女の左隣は空いたままだ。ちょっと腰を上げて30センチほど移動すれば、老夫婦は並んで席に座れる。でも彼女は、またしても微動だにしなかった。肩を妙に縮こまらせて、ひたすらキンドルを読みふけっている、というふりをしていた。

その女の人の一挙手一投足を目の前で見ていた僕は、何というか、驚きを通り越して、呆れてしまった。なぜ彼女は、最初の時もその次も「自分は何も気づいていない」というふりをしたのだろう。最初の機会に気づかないふりをしてしまったから、次の機会に席をずれれば、自分が気づいていたことがばれてしまうとでも思ったのだろうか。わからない。が、何にしても、彼女の視野とものの考え方は、とても「狭い」状態だったのかなあと思う。

タイの電車の車内では、老人や小さい子供が乗ってくると、若い人たちが先を争うようにサッと立ち上がって、さらりとにこやかに「お座りになってください」と言って席を譲る。それはとても自然で清々しく、やらされてる感のかけらもない、気持ちのいい光景だ。敬虔な仏教国の人々ならではの、心に根ざしている教えもあるのだろう。

でも、東京では、電車にそういう身体の弱い人が乗ってきても、見て見ぬふり、気づかないふり、をする人が、前にも増して多くなった。みんな、席に座ってスマホやキンドルをいじってないと、死んでしまうとでもいうのだろうか。

みっともないよ。そういうの、ほんとに。