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ミルクホール

朝早くから家を出て、尾山台にある大学で取材を二件。一件目が終わった後、構内の学食でおひるを食べる。学食で食事をするなんて、何年ぶりだろう。‥‥思い出せない(苦笑)。

僕が大学に通ってた頃、母校の古い校舎の一階には、とにかく安いけどそれ以外に長所を見つけにくい(笑)メニューを揃えた生協の学食があった。確かあれは、ミルクホールと呼ばれてたんじゃなかったかな。

そう思ってググってみると、母校のキャンパスにはものすごく豪華な学食が新設され、件のミルクホールはこじゃれたベーカリーショップに変わっていた。いいもん食ってるんだなあ、最近の学生さんは。

僕の学生時代は、正直、いい思い出を見つけることが難しいくらいの蹉跌の日々だった。ただ、そこで鬱屈したパワーを溜め込んだことが、その後社会に出てからのさらに苛酷な日々を乗り越える原動力になった気もする。

まあでも、もし、もう一度学生時代に戻れるとしたら、普通に遊びたいな。せめて人並みに(笑)。

ソーシャルが見せる幻

ちょっと前まで、世間ではソーシャルメディアという言葉がこれでもかというほどもてはやされていた。以前、僕がブログの作り方についての本を書いていた時も、版元の上層部から「ソーシャルメディアという言葉をタイトルにしろ」と、トンチンカンな提案をされたこともあるくらいだ(苦笑)。

そんなソーシャル狂想曲も、最近は少し世間の熱が冷めてきたように感じる。飽きてきた、というのもあるだろうし、FacebookにTwitterにミクシィにPinterestに‥‥そんなにたくさん面倒でやってられない、という人も少なからずいるだろう。ソーシャルなら何もかもうまくいく、ソーシャルなら何でもできる、という期待が必ずしも実現しないことに、気付いた人も増えてきているのかもしれない。

ソーシャルメディアは結局、今の時代のコミュニケーションのインフラでしかないのであって、現実を現実以上のものにすることはできないのだと思う。ソーシャル上でブレイクして有名になる人は、その人自身にそうなるべき魅力が備わっていたからであって、ソーシャルメディアはその手段の一つだったに過ぎない。売れないラーメン屋がしゃかりきになってTwitterやFacebookで宣伝しても、それでその店のラーメンがおいしくなるわけではない。

他人のツイートを読む気もないのに、フォロー返しをもらってフォロワーを増やすためだけに一度に何千人もフォローする人とか、あの手この手でFacebookページの「いいね!」を押させることだけに汲々としている企業とかを見かけると、他にもっとやるべきことがあるだろうに、とおせっかいにも思ってしまう。ソーシャルが見せる幻に、踊らされてるのだな。

ラッシュアワー

今日は朝イチと午後イチに取材が一本ずつ入っていたので、早々と出かける。ラッシュアワーの中央線は怖かったので(苦笑)、新宿までだからと、三鷹始発の総武線に乗ることにした。プラットフォームでは、二本先の列車を待つ人たちが整然と列をなし、列車が来ると、ザッ、ザッ、ザザザッ、と、まるで軍隊仕込みのようなポシショニングからの整列乗車。一糸乱れぬ挙動とはこのことか。

新宿に着いたら着いたで、構内を行き交う人たちの歩くスピードが、昼間の倍くらい速い。なんでみんな、あんなにものすごいスピードで歩くのか。わずか数分のうちに、後ろから来た人にスニーカーのかかとを三回も踏まれ、靴ひもまで踏まれてほどけてしまった。あな恐ろしや。

ニッポンのラッシュアワー。毎日はこれを味わわなくてすむ生活を送れている自分に、少しホッとしている。

ラダックから学ぶ?

午後、茗荷谷にあるジュレーラダックの事務所へ。3月24日(土)に開催されるトークイベントにゲスト出演することになったので、その打ち合わせ。

イベントのテーマは「ポスト3.11 持続可能な社会とは?ラダックから学ぶ」というもの。僕はラダックをある程度見続けてきた日本人としての立場で、写真を交えながらラダックの話をすることになった。

今回のように、日本でのラダック絡みのイベントや書籍では、「ラダックから学ぶ」といった感じの言葉がよく使われる。それは大いに結構なのだが、時々ほかの場所では、そもそもラダックとはどういう場所で、どういう人々が暮らしているのかをろくに把握しようとしないまま、ごく一部の事象だけを拾い上げて性急にラダックを論じている人を見かける。そのたびに、僕は違和感を覚えずにはいられない。「学ぶ」前にまず、ラダックそのものを「知る、知ろうとする」ことが大事だろう、と。

ラダックの良い部分と悪い部分をフラットな目線で捉えて、ラダックの人々の心の部分——苛酷な環境で生き抜く少数民族ゆえの絆の強さ、チベット仏教に根ざした精神性など——も踏まえて、いろんな角度から考えてみるべきだと僕は思う。異国を理解するというのは、そういうことではないだろうか。そのプロセスを端折って、都合よさげな部分だけつまみ食いするように「学んで」も、それは本質からズレているし、そのまま日本で活かせるとも思えない。

イベントで僕が伝えたいと思っていることの一部は、そんなところかな。

おひとりさま

夕方、いくつか用事を片付けに三鷹の駅前へ。ついでに晩飯に何か食べて帰ろうと、駅ビルのラーメン屋に入る。

店の外にある食券の券売機で、一人の女の子がずいぶん悩みながら選んでいたので、しばらくその後ろに並んで待つ。女の子が店に入った後、自分の食券をささっと買って中に入ると、「いらっしゃいませー! こちらにお冷やを置いているお席にどうぞー!」と店員に言われた。え? どこ? と思って見回すと、前に入った女の子のすぐ隣の席。店の中、カウンターもテーブルもガラガラなのに‥‥。どうやら、二人連れに間違われてしまったらしい。

こういう場合、「いや、僕、あっちに坐ります」と言ったら、店員はともかくその女の子に何となく失礼な気がしないでもない。とはいえ、そのまま隣に坐ると、それはそれで気詰まりな空気になる。ちょっと悩んだ後、指定された席の椅子を引く時に、女の子の席から軽く離す感じにして坐ることにした。まあ、それでも食ってる間、お互い相当な気まずさだったけど。

おひとりさまのお嬢さん、ごめんなさい(苦笑)。