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交通費のモヤモヤ

仕事柄、関東周辺やたまに地方などの取材を依頼されることがある。その時、現地までの交通費はたいてい自腹で立て替えて、後で原稿料と交通費の明細を請求書にまとめ、依頼元に請求する形になる。

で、だいたい二カ月後くらいに報酬が支払われるわけだが、その際、依頼元によって報酬の内訳に違いが生じていた。原稿料と交通費の合計から一割が源泉徴収された金額の場合と、原稿料からだけ一割源泉徴収されて交通費は全額支払われる場合と。どっちがどうなんだか、以前からモヤモヤしていた。近場の取材なら交通費の一割といってもたかが知れてるが、地方まで飛行機や新幹線で往復するとなると、バカにできない金額になるからだ。それが確定申告の還付金で100パーセント戻ってくるわけでもないし。

この件についてググってみると、国税庁のサイトに、「旅費や宿泊費などの支払も原則的には報酬・料金等に含まれます。しかし、通常必要な範囲の金額で、報酬・料金等の支払者が直接ホテルや旅行会社等に支払った場合は、報酬・料金等に含めなくてもよいことになっています」とあった。つまり、宿泊費や交通費は源泉聴収の対象外ということでよさそうだ。

これから大きな金額の交通費が発生する場合は、めんどくさいので、なるべく依頼元に払ってもらおうと思う。

事実を知り、事実を伝える

以前、別のエントリーで言及した「TRANSIT」のチベット特集号の件で、早稲田大学の石濱裕美子先生が、ご自身のブログに書評を掲載されていた。

白雪姫と七人の小坊主達:「事実」の重みを知れ

読んでいただければよくわかると思うが、件の雑誌の矛盾と問題点を、完膚なきまでに論破。石濱先生、さすがというか、容赦ない(笑)。お見事です。

でも、その一方で、あれだけ内容に矛盾と問題点を抱えてる雑誌を、「写真きれーい」「カッコイイー」「チベット行きたーい」と、うすっぺらく賞賛してる人も世の中にはいるわけで。そういう人は、何が矛盾してるのか、何が問題なのかということがまず理解できていない。日本人のチベット問題に対する認知度というのは、未だその程度の浅いものなのだろう。

先入観に惑わされず、今、何が起こっているのか、事実を知り、それを伝える。自分も書籍というメディアに携わる身として、あらためて肝に銘じねばと思う。

今日もまた一人、チベット人が焼身抗議を図ったという報せが届いた。状況は、何一つ好転していない。どこかの誰かに「演歌にも似た哀愁が絵空事に感じる」と言われようと、僕は、チベットの人々の側につく。

お金をもらうということ・その後

いい天気だなーと思ってたら、突然のスコール、そして虹。最近、妙な天気が続いている。

十日ほど前に言及したstudygiftの件だが、今日になってサービスの一時停止と支援金を返金することが発表された。

前のエントリーでは、件の女子大生をあれだけ最前線に押し出すのなら、炎上しないための配慮はすべきだったと書いたが、実はあれでも相当オブラートにくるんでいたようで(苦笑)、休学ではなく実は退学扱いになっていたとか、お金が集まっても再入学できるとは限らないとか、いろいろ残念な事実が後から露呈してしまった。率直に言って、件の女子大生も、周囲の関係者も、これでは世間に叩かれても仕方ないだろう。お金集めの動機と、そのやり方に対して。初めから、周囲のお金持の知人たちが、ニコニコ現金払いでお金を貸してやればよかったのだ。それを、動機にいささか無理がある人を看板にして新サービスを立ち上げて、うまいことやろうとしたりしたから、破綻したのだと思う。

しかし思うのは、あの若さで、195人の個人と26社の企業から支援を受けられるほどの人なら、別に無理して大学に再入学したりしなくても、普通に世の中を渡り歩いていけるんじゃね?ということ。大学を卒業することは、無駄ではないけれど、必須でもない。本当に実力のある人なら、人気の有無とか関係なく、ちゃんとやっていけるだろうに。

瑕ひとつない人生を送ってる人なんて、世の中にはいない。つまずいたら、自分で立ち上がればいいだけのことだ。

お金をもらうということ

今日ネット上では、studygiftという新サービスの話題でもちきりだった。学費の工面に困っていたり、何かの目標に挑戦したい学生を支援するサポーターを集めるためのオンラインサービス。サービスのコンセプト自体はまったく何の問題もなく、むしろ大いにやってくれればいいと思うのだが、そのローンチの仕方が、いささかまずかった。

最初に学費の支援を求めるという形で広告キャラクターのような立場でフィーチャーされたのが、しばらく前からネット上で人気の女子大生。InstagramやGoogle+ですごい数のフォロワーを持つ女の子で、起用(?)されたのもさもありなんという感じだった。ところが、彼女が学費の支援を求める理由は、「成績が下がってしまって奨学金を打ち切られてしまった」という正直すぎるものだったのがよくなかった。有名人がこういう弱みを見せると、世間は容赦ない。案の定、この件はネット上で格好の餌食にされ、炎上どころか血祭りに近い状態になった。

この件は、その女子大生が悪いというより、サービス提供元のスタッフの見込みが甘かったことに尽きると思う。広告キャラクターと呼ぶと否定されるのだろうけど、あれだけ彼女をフィーチャーして最前線に押し出しているのだから、こんな惨事にならないための準備(嘘をつけとは言わないが、オブラートにくるむくらいの大人の配慮)はすべきだったろう。それでも、人々に「彼女を助けたい」と思わせるほどの真摯さが伝わったかどうかはわからないが。

件の彼女の場合、元々有名なだけあって、それなりの金額が集まっているそうだ。でも、その代わりに、彼女はどれだけのものを失っただろうか。

人にお願いごとをしてお金をもらうということは、とても大変で、デリケートなことだ。クラウド・ファンディングであれ何であれ、システム的にうまく立ち回りさえすればお金が集まるなんてことは、ありえない。人の心を動かすには何よりも、真摯な理由がいるのだと思う。

震災の記憶

午後、吉祥寺へ。吉祥寺美術館で開催中の石川梵さんの写真展「The Days After 東日本大震災の記憶」を観る。

去年起こった震災の時、石川さんは翌日自らセスナをチャーターし、東北の被災地の空撮を行った。その後も陸路で被災地を回り、二カ月にも及ぶ現地取材に取り組んだ。取材は今も続けられていて、この写真展ではつい先月撮影されたばかりの、震災から一年後の被災地の写真も展示されていた。

それは、報道写真のような「記録」の写真ではなかった。一人の写真家が長い時間をかけて見つめ続けた、「記憶」の写真。たとえようもない悲しみと、虚無感と、そして‥‥雲間から微かに射す光。そこに光があるのかどうかさえ、わからないほどの。

人間は、忘れる動物だ。特に、自分と直接関係のない他人の悲しみについては、忘れるのが早い。悲しみだけに囚われて生きていくのは決していいことではないけれど、でも、あの震災の「記憶」は、すべての日本人が胸の奥に小さな痛みとして抱え続けていくべきものだと思う。でなければ、被災地の人々をこれから支えていくことなどできはしない。

石川さんの写真は、あらためてそのことを教えてくれた気がする。