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直に響く

しばらく前から続けられている、うちのマンションの屋上の防水工事。いよいよ佳境にさしかかったらしく、今日は朝から夕方まで、かなり大きな音がしていた。

電動のドリルかネジ回しの、ガガガガガ、ゴゴゴゴゴ、という音が、振動とともに響いてくる。壁や天井のコンクリを伝って部屋まで直に響いてくるので、単にやかましいというレベル以上に気になって、どうにも落ち着かない。いつぞやの近所の道路工事以来の困った事態になった。明日も音がするらしいので、日中はどこかに避難するかな‥‥。

それでも、工事そのものに対して嫌な気分にならないのは、施工業者さんが作業の予定をチラシや貼り紙でこまめに伝えてくれるから。最初に工事開始のチラシを一枚放り込んだだけで、その後何カ月もの間、たいして必要でもない道路工事をえんえん続けさせた武蔵野市に比べれば、全然ましだ。

「拠り所」について

人が生きていく上で、何かを「拠り所」にするのは、けっして悪いことではないと思う。何を拠り所にするかにもよるが。

有名な大学を出ているとか、誰もがうらやむ企業で働いているとか、本人がそれに見合う実力を持っていれば別に問題ないけれど、肩書きに負けてるようならたいした意味はない。何らかの理由で裕福だとか、外見の美しさに恵まれているような人も、内面が伴っていなければ、いささか残念なことになるだろう。流行りのブランドの服やバッグを持っているとか、FacebookやTwitterのフォロワーが何人いるとか、そんな吹けば飛ぶような物事には、もちろん何の意味もない。

何かの分野のスペシャリストという人でも、その分野が廃れてしまったら応用が全然利かないような守備範囲の狭さなら、そのうち困ったことになるはずだ。たとえば僕の場合、それはラダックということになる。ラダック以外、写真も文章も使い物にならないようなデクノボーではまずいわけだ。当たり前といえば当たり前すぎるけど。

そう考えていくと、人が生きていく上で拠り所とするべきなのは、周囲がどんな状況になってもさほど左右されない能力や経験の蓄積と、一人の人間として真っ当な価値観とバランス感覚を持つことなのだろうと思う。結局、自分自身なんだろうな、拠り所って。

人の価値

それぞれの人の価値というのは、結局のところ、誰かに何かをしてあげられているかどうか、なのかもしれない。

一曲の歌で世界中の人々を感動させられる人。オリンピックでメダルを取って国民を熱狂させられる人。何世代にもわたって読み継がれるベストセラー小説を書ける人。何万人もの社員を養う大企業を創業した人。そういう人たちはすごいんだろうというのは、まあ、わかりやすい。

でも、自分の子供を日々大切に守り育てる父親や母親、地味でも社会を支えるのに欠かせない仕事に黙々と取り組む人も、わかりやすく華々しい活躍をする人と同じか、それ以上にすごいと、僕は思う。病の床に臥している人でも、生きることそのものが、その人を大切に思う人たちの心の支えになっているはずだ。

価値のない人というのは、自分自身のことしか眼中になくて、他人を欺いたり傷つけたりすることに何の痛みも感じないような人。そういうろくでもない人以外、たいていの真っ当に生きている人たちの人生には、すべからく価値があるのだと、僕は思う。

だから、日々を当たり前に、真っ当に、心のどこかで誰かを思いながら、生きていけばいい。

ネパールで地震

今日も穏やかな日和。ほんのちょっと仕事をした後、何をするでもなく部屋でまったり過ごしてたら、ネパールで大きな地震が起こったとの知らせ。歴史的建築物を含む多数の建物が倒壊し、大勢の死者が出ているらしい。エベレストなどの山に入っている登山隊にも雪崩で死者が出ているようだ。

チベットやブータン、ラダックと同じ文化圏にあるヒマラヤの国ということで、僕の知り合いにもネパールに縁のある人が多いのだが、その人たちの心情を考えると、何とも言えない気持になる。自分にとってかけがえのない土地が痛めつけられ、大切な人々が苦しむというのは、つらい。僕も、2010年のラダックの土石流災害の時に同じような思いを味わったから、その気持は痛いほどわかる。

今はただ、救助活動やその後のサポートが少しでもうまくいくように祈りつつ、自分たちにできることを探すしかない。

名前は覚えた

今の時期、家で仕事をしていて本当にうっとうしいのは、選挙カーである。今週末、武蔵野市議会議員選挙の投票があるからだ。

うちのマンションは三鷹駅北口の住宅地の中でもかなり奥まった場所で、普段は車もめったに通らないような静かな立地だ。国政選挙や市長選挙の時も選挙カーはここまで入ってこないのだが、市議会議員候補のみなさまは、なりふりかまってられないのか、閑静な住宅地であることなどおかまいなしに選挙カーで入り込んできて、スピーカーからでかい音で名前を連呼。原稿に集中してキーボードを叩いている時も、休憩で音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいる時も、そんな騒音で邪魔されたら、ほんと、だいなしである。

選挙カーで名前を連呼しながら走り回ることに、何の意味があるのだろう。さんざん金を無駄遣いして、騒音で住民に迷惑をかけるだけなのに。いや、名前を刷り込ませて覚えさせるのには、少しは効果はあるのか。

よし。うちの近所で騒いでた候補者の名前は覚えておこう。その人たちには投票しないようにするために。