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世界一のクリスマスツリー

午前中から夕方まで、八王子で取材。帰りにココイチでスープカレーを食べ、家まで戻ってくる頃には、すっかり日が暮れていた。

近所にあるキリスト教系の幼稚園のベランダが、この時期恒例の電飾で彩られている。この建物は教会でもあるので、電飾もおとなしく、品のようなものがある。同じ電飾でも、三鷹駅北口ロータリーで年末灯される電飾は、正直言ってあまり品がない。青や白のLEDを大木の枝にむやみに絡めつけていて、人間の身勝手さを感じてしまう。

神戸港に先日持ち込まれたという、「世界一のクリスマスツリー」とやらのことを思う。氷見の山から根ごと引っこ抜かれ、はるばる神戸まで運ばれ、震災の鎮魂とかいう被災者の感情をもろに逆撫でする惹句を後付けでまぶされ、クリスマスの後は切り刻まれて神社の鳥居にされる予定という、世界一のクリスマスツリーのことを。

そもそも、何が世界一なのかもよくわからない。高さなら、国内外にもっと大きな、しかも自生しているツリーがあるという。子供たちが願い事を書いたオーナメントをくくりつけた数で世界一ともいうが、つけたそばから風で割れてバラバラ落っこちて、ろくに回収もされていないという。あのプロジェクトに関わっている人間たちの愚かさという点では間違いなく世界一だが、それではそんな愚かな人間たちに無理やりツリーに仕立てられたあげく鳥居にされてしまう、樹齢150年のあすなろの木(かどうかも実ははっきりしない)が可哀想だ。

世界一、無残な、クリスマスツリー、なのだろうな。

Stay Gold

家での仕事の合間に、夕方、近所の歯医者へ。歯石の掃除であと2回ほど通うことになりそうだが、治療自体は今日で終わり。帰る前に駅のみどりの窓口に寄って、年末年始に安曇野に行くための切符を買う。

窓口にいたのは、まだ若い、人のよさそうな女性で、僕の前でもたついていたおばさんを嫌な顔もせずニコニコと案内していた。僕の番になっても、ものの言い方とかがいちいち丁寧。まだあまり窓口業務に慣れてないらしく、端末のモニタを慎重に確認しながら操作している。で、支払いの段になったのだが、なぜかレジが動かない。レシートのロールペーパーが切れていたらしい。

そこから彼女は、たぶんあまり経験がなかったであろうロールペーパーの交換作業に取り組むことになった。ペーパーのセット方法は結構アナログで、それなりにコツがいるらしく、5分くらいはかかったと思う。終わった後、「大変お待たせして、本当に申し訳ありませんでした……」と深々と頭を下げていたが、別に僕は急いでなかったし、後ろにも誰も並んでなかったから、そこまで謝らなくても、と逆にちょっと恐縮してしまった。

窓口業務、きっといろいろ大変なんだろうけど、できれば、これからも、そのままで。

言うべきことを言うということ

僕は基本的に、思ったことを割とそのまま口にするタイプの人間だ。それが他人を傷つけてしまわないかということにはもちろん留意するけれど、他人の顔色を窺ったり、それによって自分が他人からどう思われるかを気にしたりは、全然しない。そんなことは、心底どうでもいい。

世の中には、誰かの不条理なやり方によって、権利や心を踏みにじられるような思いをさせられている人が、少なからずいる。そうした不条理に対して、誰も何も言わなければ、それがそのまままかり通ってしまう。安っぽい正義感と言われようが、人目を気にしてだんまりを決め込めるほど、僕は「大人」ではない。

だから僕は、僕が言うべきだと思ったことを、これからも折につけ、口にしていくし、書いてもいく。今までもこれからも、僕はそういう人間だ。

ブームには乗らない

数日前に今年のボジョレー・ヌーボーが解禁されたのだが、世間がバブリーに大騒ぎしてたひと昔前に比べると、メディアでの扱いもめっきり少なくなった。なので、こちらとしてはすっかり安心して、ボジョレーを飲める(笑)。

たとえば酒に関してだと、ワインブームが来て、焼酎ブームが来て、ちょっと前にはウイスキーだったか。そのたびにその方面の酒は手に入りにくくなるし、店で注文するのも妙に気恥ずかしいしで、世間にそういうブームが来ると、ろくなことはなかった。女性の方だと、スイーツとかもブームの波に翻弄されがちなジャンルだろうか。

ほんと、ブームには、乗らないにかぎる。ほとぼりが冷めたところで、ゆっくり楽しむのがいい。

「サーミの血」

スカンジナビア半島の北部に位置するラップランド地方は、先住民族のサーミ人が暮らす土地だった。近代文明の流入に伴い、サーミ人は各国で劣等民族として差別的な扱いを受けてきた。僕は二年前にプレスツアーでノルウェーのトロムソを訪れた時、つい数十年前まで迫害され続けていたサーミ人の歴史について初めて知った。だけど、この「サーミの血」という映画は、彼らの受けてきた差別が実際どのようなものだったか、理屈ではなく、恐ろしいほど生々しい感覚のまま、我々の目の前に差し出している。

自らもサーミ人の血を引くというアマンダ・シェーネル監督は、劇中の衣装や小道具、トナカイの扱いなど、サーミ人の生活様式に関わる演出は徹底的に検証して再現したという。主人公のエレ・マリャを演じるレーネ=セシリア・スパルロクもサーミ人だが、ひとことも発しなくても、その瞳だけで、サーミ人であることの誇りと怒り、そして悲しみを表現していたのには、圧倒された。彼女なくしてはけっして撮ることのできなかった映画だと思う。

こうした差別という人間の宿痾は、さまざまな形に姿を変えながら、世界中の至るところで今も横行している。日本でも、そうだ。お互いの違いを認め合い、ありのままを受け入れること。どうしてそれをできない人々が、こうも多いのだろう。