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オリヴィエ・フェルミ「凍れる河」

ラダックやザンスカールをテーマに撮影に取り組んでいるフォトグラファーは大勢いるが、オリヴィエ・フェルミはその中でも間違いなく第一人者だと思う。レーの書店の一番目立つ場所には彼の写真集が平積みにされているし、毎年夏になると大勢のフランス人がザンスカールを訪れるのは、ひとえに彼の写真の影響によるものだ。

この「凍れる河」は、1990年にワールド・プレス・フォト賞を受賞した写真集の邦訳。ずっと前から絶版になっていたのだが、状態のいい古本をようやく手に入れることができた。

ザンスカールのタハンという村で生まれ育った幼い兄妹、モトゥプとディスキット。フェルミたちの援助で、二人はレーにある寄宿学校に行くことになった。兄妹は父親のロブザンとともに、氷の河チャダルを辿る旅に出る——。

A5サイズの上製、150ページ足らずの小さな写真集。だが、この「凍れる河」の中には、ザンスカールの自然と人々に対するフェルミの想いが、あふれんばかりに詰まっている。ダイナミックな構図で切り取られた、鮮烈なコントラストの写真の数々。短くシンプルだが、寄り添うような情感を感じる文章。途方もなく寒いはずのチャダルの写真ばかりなのに、ページをめくるたび、心がふわっと暖かくなるのは何故だろう。

フェルミは若い頃、登山家を目指していたそうだが、山の頂に登るより、谷間に暮らす人々の穏やかな微笑みに惹かれるようになったのだという。自分が惚れ込んだ場所を、とことん時間をかけて取材し、その地に生きる人々との心の絆を深めていく。だからこそ、フェルミはこういう写真と文章をものにできたのだと思う。僕自身、取材に対する彼の真摯な姿勢には、学ぶべきところが多いと感じている。

余談だが、この本の主人公の一人、モトゥプは僕の大切な友人でもある。レーの街のフォート・ロード沿い、チョップスティックスというレストランの隣にある、オリヴィエ・フェルミ・フォトギャラリーに行けば、大人になった彼が笑顔で出迎えてくれるはずだ。

プロになるということ

先月中旬、あるフォトグラファーの方にインタビューした時、印象に残っている言葉がある。

「プロのフォトグラファーになりたいと思っている若い人は大勢いますが、実際にプロになる人は、ごくわずかですよね。写真の仕事だけで生活できるかどうかわからないから、みんな尻込みしている。そういう人に、僕はよく言うんです。自分が本当にプロになりたいかどうか、真剣に考えろ。本気でなろうと思えば、何にでもなれる。でも、『なれるものならプロになりたい』と思う程度だったらやめておけ、と」

まったくその通りだなと思うし、フォトグラファーに限らず、ライターにも、編集者にも、ほかのあらゆる職業にも通じる話だと思う。実際、なろうと思えば、僕たちは何にでもなれる。その上で必要なのは、自分が選んだ道で生き抜いていく覚悟。どんなに打ちのめされても、折れない心。たとえ先が見えなくても、前に踏み出す勇気。

それが、何者かになるということ。プロになるということなのだと思う。

気持で撮る、気持で書く

ラダックの風息」の読者の方などから、時々、こんな質問をされることがある。

「どうやったら、こういう写真が撮れるんですか?」

僕自身には、「こういう写真」というのがどういう写真なのか、正直よくわからない。ただ、他の人から見ると、僕が撮ったラダックの写真から、何かしら特殊な印象を受けるのだという。同じような質問は、僕がラダックについて書いた文章でもよく訊かれる。こちらについても、具体的に何が違うのか、自分ではよくわからない。

写真も、文章も、とりあえず、それらを商品として売り物にできる最低限のスキルは、僕も一応、持ち合わせていると思っている(でなければ、プロを標榜する資格がない)。でも、ほかのプロのフォトグラファーやライターよりも飛び抜けて秀でた才能を持っている、とはまったく思っていない。世の中には、僕よりも才能に恵まれたフォトグラファーやライターが、星の数ほどいる。たとえば、そういった人たちがラダックを取材すれば、きっと素晴らしい写真や文章をものにするに違いない(実際、僕はもっと多くの人にラダックを取材してほしいと思っている)。

でも、そういった人たちの写真や文章は、たぶん、僕が手がけたラダックの写真や文章のようにはならない。どちらがいい悪いという問題ではなく、何かがそこはかとなく、しかしはっきりと違ったものになると思う。その違いが生じる原因は、何となくわかる気がする。

それは、気持。

たとえ才能はなくても、ラダックの自然や人々に対する気持の強さは、僕は、ほかの誰にも負けない。それだけは、自信を持って言い切れる。そのありったけの気持を込めて、写真を撮り、文章を書いてきた結果が、ほかの人の写真や文章との違いになっているのだと思う。

気持で撮る、気持で書く。そんな仕事に取り組めている今の自分は、幸せなのかもしれない。

白鳥の歌

父が生前に撮影した写真。安曇野にある、冬の早朝に白鳥が集まる池で撮ったものだと思う。父が勤めていた高校の元同僚(僕も教わったことがある)でカメラ仲間の方が、葬儀の時にこの写真を大きく引き伸ばして持ってきてくださった。家族もみんな気に入っていたので、父の訃報を伝えるハガキの裏面にこの写真を刷って、知人の方々に送った。

白鳥の歌、か。カッコつけやがって。

父について

2011年7月27日未明、父が逝った。71歳だった。

当時、父は母と一緒に、イタリア北部の山岳地帯、ドロミーティを巡るツアーに参加していた。山間部にある瀟洒なホテルの浴室で、父は突然、脳内出血を起こして倒れた。ヘリコプターでボルツァーノ市内の病院に緊急搬送されたが、すでに手の施しようもない状態で、30分後に息を引き取ったという。

父の死を報せる妹からのメールを、僕は取材の仕事で滞在中だったラダックのレーで受け取った。現地に残っている母に付き添うため、翌朝、僕はレーからデリー、そしてミラノに飛び、そこから四時間ほど高速道路を車で移動して、母がいるボルツァーノ市内のホテルに向かった。

車の中で僕は、子供の頃のある日の夜のことを思い出していた。その夜、僕たち家族は車で出かけて、少し遠くにある中華料理店に晩ごはんを食べに行ったのだ。店のことは何も憶えていないが、帰りの車で助手席に坐った時、運転席でシフトレバーを握る父の左手にぷっくり浮かんだ静脈を指でつついて遊んだことは、不思議によく憶えている。指先に父の手のぬくもりを感じながら、「もし、この温かい手を持つ人が自分の側からいなくなったら、どうすればいいんだろう?」と、不安にかられたことも。

翌朝、病院の遺体安置所で対面した父は、まるで日当りのいい場所で居眠りをしているような、綺麗で穏やかな顔をしていた。腹の上で組まれた父の手に、僕は触れた。温かかったはずのその手は、氷のように冷たく、固かった。

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