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形にする

この間からずっと自分の中でつっかえて手が付けられないでいた作業に、昨日あたりから、ようやく取り組めるようになってきた。形にするとしてもあと一年くらい先の話なのだが、まずは自分の中でイメージが固まりつつあることに、ちょっとほっとする。

ずっとつっかえて悩んでいたのは、たぶん、確信が持てなくなっていたからだと思う。「‥‥そこまでして、それを形にすることに、意味があるんですか?」‥‥同じような言葉を何度も何度も浴びせられているうちに、自分の中でも揺らいで、わからなくなってしまっていたのだ。

それでもやっぱり、立ち向かうしかない。

これを形にすることに意味があるかどうかなんてわからないけれど、形にしなければ、意味があるかどうかさえ確かめられない。大切にしていることを伝えるために、今の自分にできる一番いい方法で、形にする。意味があるかどうかを判断してくれるのは、それを手に取ってくれた人だ。

それでいいのだ、と思う。

丹沢、氷の花

二ノ塔の手前から南を望む

昨日は、丹沢へ山歩きをしに行った。去年の春に歩いたのと同じ、ヤビツ峠から塔ノ岳を経て大倉に降りる、約六時間の行程。前日の天気予報では晴れと聞いていたけど、ヤビツ峠に到着してみると、鈍色の雲が空を覆うぱっとしない天気。澄み渡る青空の下で紅葉の山々を堪能できると楽しみにしていたのに、ちょっとがっかり。

登りはじめて約一時間後、二ノ塔の手前のあたりでふりかえると、雲間から射す光が海を照らしていた。

旅と居場所

すっきり晴れた、気持ちのいい日和。こまごましたものを買う用事があって、午後、吉祥寺までぶらぶら歩いていく。

歩きながら、頭の中にくりかえし浮かんでくるのは、一昨日のクーデルカの写真展と、図録に書かれていた彼の言葉。無国籍の身の上で流浪の旅を続けながら写真を撮っていた彼は、自分の居場所だと思える場所を見つけてしまわないように、必死に耐えていたのだという。はたしてそれは、いかほどの苦しみだったことか。

僕はかつて、いろんな場所を旅しながらも、心のどこかで、ここは自分の居場所だと思える場所に出会えることを望んでいた。そしてラダックという場所と巡り会い、かけがえのない時間をそこで過ごした。でも、それができたのは、僕にとってのもう一つの居場所、生まれた国である日本という場所があったからなのだと、今はわかる。僕はたまたま、恵まれていたのだ。今の自分があるのは、実力でも何でもなく、たくさんの幸運に支えられていたからにすぎない。

自分を支えてくれていた幸運を、おろそかにしてはならないな、とあらためて思った。

流浪の写真家

昼、電車に乗って都心へ。今日から東京国立近代美術館で始まった、ジョセフ・クーデルカ展を見に行く。

僕はそんなにたくさん写真集を買う方ではないが、二十代の初め頃に買ったクーデルカの仏語版「エグザイルス」は、今も手元にある。あの頃、何度この写真集のページをめくっただろう。モノクロームの写真に横溢する、孤独と虚無。僕にとっての写真にまつわる原体験の一つは、間違いなくクーデルカの写真だった。

1968年のワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻を撮影した彼の写真は、マグナムを通じて匿名のまま世界中に配信され、大きな反響を呼んだ。だが、それをきっかけに彼は祖国を逃れ、17年もの間、無国籍のまま、さまざまな土地を彷徨うことになる。どこにも家を持たず、わずかな収入をもとに最低限に生活を切り詰めてまで、彼はなぜ旅を続けたのか。何を見て、何を撮り、何を伝えようとしたのか。彼の作品のオリジナル・プリントを間近で見るのは初めてだったのだけれど、見続けていると、胸の奥の一番深いところを、きゅううっと締めつけられるような気がする。その感情をどう形容していいのか、自分でもよくわからない。

ミュージアムショップで販売されていた瀟洒な装丁の図録を買い、家に帰ってから、ソファでぱらぱらめくる。章と章の間に、クーデルカへのインタビューが挿入されている。その冒頭に、彼のこんな言葉があった。

「ジョセフ、おまえはずいぶん長く旅をしてきたそうだな。どこにも腰を落ち着けることなく、いろんな人に会い、いろんな国であらゆる土地を見てきたんだろう。どこが一番だったか教えてくれ。どこになら腰を落ち着けてもいいと思うんだい?」私は何も答えなかった。そこを発つ時になって彼はまた訊ねた。私は答えたくなかった。でも彼はしつこく訊いてきて、最後にはこう言ったのだ。「ああ分かったぞ。おまえはまだ一番だと思える土地を見つけていないんだな。おまえが旅を続けるのは、まだそんな土地を探しているからなんだろう」「友よ」と私は答えた。「それはちがう。私はそんな場所を見つけないように必死になってがんばっているんだよ」

祖国を離れ、あまりにも長い旅を続けてきた彼の哀しみが、そこににじんでいるような気がした。

「その気にさせる」カメラ

しばらく前から意味深なティーザー広告で話題となっていたニコンの新しいカメラ、Dfが発表された。機械式のダイヤル操作系を持ち、従来機種のデジカメでは対応していなかった古いレンズも使える機能を持つカメラ。そのスタイルと性能にネット上では賛否両論のようだけど、僕は素直に、カッコイイな、欲しいな、と思う。

写真を撮る時、その一枚に撮り手の感情や思いがどのくらい載っているかというのは、とても大事だ。それが写真の価値を左右すると言ってもいいくらい。そして、撮り手の気持ちを写真にきちっと載せるには、しっかりしたカメラを使うことも大事だと僕は思う。たとえばスマホで撮った写真を何枚見せられても、気持ちを込めてカメラで撮った写真に比べると、どうしてもうすっぺらく感じられてしまう。スマホのカメラがどれだけ高性能化していても、だ。

カメラにもいろいろあって、完全なプロ仕様の機能最優先のカメラもあれば、初心者でも扱いやすい操作系のカメラもある。今回のDfは、写真撮影そのものを楽しむことを追求したカメラなのだろう。こういう「その気にさせる」カメラで撮り手の気持ちが盛り上がって、楽しくあるいは真剣に撮影できるなら、それはそれで、プロ仕様のカメラとは違った意味で、いい写真を生む源になるのではないだろうか。

Df、いいな。欲しいな。でも高いな(苦笑)。それよりもまず、これからの仕事で使うためのカメラを買わなくちゃ。