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自分の写真展について考えたこと

今年はひさしぶりに、単独で写真展をやることにした。春先に新しい本を出すので、そのタイミングに合わせて。ここ数年、ラダック、ザンスカール、スピティで撮影してきたものを中心に、それ以前からの代表作も織り交ぜて展示しようと思っている。

会場は今のところ、2カ所を予定している。どちらも、友人が経営する飲食店の店内だ。それぞれ展示内容は異なるが、一方では約2カ月、もう一方でも約1カ月と、写真展としてはかなり長期間の展示になる。

もともとは、数年前から「次にラダックの写真展をやるなら、展示専用のギャラリーで、大きくて高画質なプリントのパネルをずらりと並べるような展示にしたい」と考えていた。メーカー系のギャラリーの公募にかたっぱしからあたってみようとか、もっと高く付くけど開催時期の調整に融通の利く私営のギャラリーはどうだろうかとか、いろいろ模索していた時期もあった。ただ、そうやって検討を重ねているうちに、なんとなく自分の中で違和感が芽生えてきていたのも事実だった。

僕はそもそも、どうして写真展をしたいんだろう? 誰に、何を伝えたいと思っているのだろう? もしかして、ただ単に自分自身の虚栄心を満たそうとしてはいないだろうか?

専用のギャラリーで高品質なパネルを並べて展示すれば、確かにそれによって伝えられる感動はあるかもしれない。でも、よほど立地条件のいいギャラリーでないかぎり、そういう展示にわざわざ足を運んでくれるのは、写真を見るのが好きな人や、すでにラダックに強い興味を持っている人にしぜんと限られてくる。期間もせいぜい1、2週間が限度だし、来たくても来れずに終わる人も少なくないかもしれない。

僕はむしろ、ラダックのことをほとんど知らない人や、写真にもあまり関心のないような人にこそ、自分の写真をきっかけにラダックに興味を持ってほしいと思っているのだ。極端な話、ヤマモトタカキが誰だとか、知ってもらわなくても構わない。この世界に、こういう場所があるのだと、ただそれを伝えたいだけなのだ。

そこまで考えがほぐれると、結論はおのずと見えてくる。今度の新しい本に合わせて写真展をやるなら、自分のルーツに一番近い場所で。誰でも気軽に来れて、何も知らずに来た人もちょっと興味を惹かれるような、さりげないけど、じわじわくる、そういう展示。それを、できるだけ長い期間、じっくりと。この世界に、こういう場所があることを、まっすぐ伝えるための写真展。

僕の伝えたいことは、たぶん、根本的なところは昔からずっと変わっていない。写真展でそれを伝えるには、少なくとも自分にはこのやり方が一番合っている。今はそう確信している。

というわけで、もうすぐ、やります。お楽しみに。

「地球の歩き方 タイ 2016〜2017」

地球の歩き方タイ一昨年と昨年に引き続き、撮影とデータ取材の一部を担当させていただいた「地球の歩き方 タイ 2016〜2017」が2月8日(月)頃から発売になります。今回の改訂版では、巻頭のカラーグラビアで、タイ北部の街めぐり(チェンマイ、ラムパーン、プレー)で6ページ、タイ国内の世界遺産の紹介(主な内容は昨年と同じですが、写真の大半は撮り下ろしを含めた別カットを使用)で5ページの写真を提供しています。その他には、本全体の巻頭トビラとタイ中部の章トビラの写真、カンチャナブリーの項にある泰緬鉄道の見開き写真なども。書店で見かけたらお手に取ってご覧になっていただけるとうれしいです。

ふと気がつくと

午前中に家を出て、昼、神保町でインタビューの収録。今日も面白い話を伺うことができた。終わった後、カメラバッグを背に渋谷に移動。マメヒコでコーヒーを飲んだりして少し時間をつぶし、夕方から新しい仕事の打ち合わせ。この案件、年に数回のペースで発生することになりそうだ。

ふと気がつくと、今、やっぱり、仕事の数が集中しすぎてる。いや、うすうす感づいてはいたんだけど、それにしても……。あれもやらなきゃ、これも進めとかなきゃ、と気ばかり焦って、何だか落ち着かない。ほんとに全部捌けるのかな、大丈夫かな、と自分でも自信が持てなくなる。

まあでも、やるしかない。それが仕事だから。

比較対象外

今の自分の仕事に関して、別の誰かの仕事と比較された経験が、ほとんどない。

そもそも、編集とライティングに写真まで、三足もの草鞋を履く人は今でも稀だ。その上、一番の専門分野がインドの山奥。比べようにも対象となるような仕事の仕方をしてる人が誰もいない、というのが実際のところだ。

文章も写真も編集力も、どれも取り立てて人より秀でてるわけではない。せいぜい並の能力だと自覚している。でも、争う相手が誰もいない場所で、並の能力をあれこれやりくりしていけば、僕みたいなのでも、どうにかこうにか生き残っていける。狙ってこうなったわけではないけれど、結果的に選ぶべくして選んだ道だったのかなと思う。

誰かと無理に争わなくても、自分自身との戦いにさえ勝てば、やっていける場所はいくらでもある。

「プロ意識」の基準

「プロ意識」という言葉には、職人や専門職の人たちが持つその分野ならではの考えという意味合いがあるが、最近では比較的一般的な職業の人たちでも、担当領域で持つべき意識という感じで使われている印象がある。僕自身は、もともと編集者でありライターであり、最近は写真もやっているが、いずれもプロ意識なるものを持ってなければ食べていくこともままならない立場なので、自分なりに意識してきた基準めいたものはある。

それは、自分自身の担当領域に対する「責任」と、他人の担当領域に対する「敬意」、そして何か判断を下さなければならない時の「論理性」だ。

自分の担当領域への「責任」というのは、当たり前すぎるように思えるかもしれないけど、それがどのような結果をもたらすかを見通した上で責任を持てるような取り組みをするには、結構な覚悟がいる。結果というのは必ずしも経済的な数字だけとは限らないので、なおさらだ。

同時に、他人の担当領域に対して「敬意」を持つことも大事だと思う。これは他に問題があってもナアナアの馴れ合いでスルーしていいということではない。きちんと敬意を持って接し、互いに理解に努めた上で、問題があればフォローし合う関係を築けなければ、まともなチームワークは期待できないからだ。

その上で、仕事を進めていく上で何らかの判断を下さなければならない時は、好きとか嫌いとか他人との関係とか、そういうものには左右されず、「論理性」を持つ根拠に基づいて判断できるようでなければならない、と思う。

まあでも、仕事の種類にもよるけれど、関わる人が増えれば増えるほど、理想通りに仕事に取り組むのは難しくなっていくんだよな……。かといって、そこで「プロ意識」を譲って妥協してしまうのは、絶対にしてはいけないことだとも思う。たとえ立場的にやせ我慢だとしても、どれだけ矜持を保っていられるのかは、プロであるか否かの基準だ。