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被写体との「距離の近さ」の正体

「被写体との距離が、近いですね」と、何かの機会に僕の写真を見てくださった方から、時々言われることがある。そう感じていただけるのは、もちろん嬉しい。ただ、最近ふと思ったのは、そもそも写真を見た時に感じる被写体との「距離の近さ」の正体とはいったい何なのか、ということだ。

カメラを持つ撮り手と被写体との間の「物理的な距離が近い」という、言葉通りの意味での「距離の近さ」がそう感じさせる場合は、もちろん多いだろう。望遠レンズで遠くから秘かに狙って撮るよりも、至近距離で撮る写真の方が「距離の近さ」は感じさせやすいのかもしれない。ただ、むやみに被写体に近づいて撮っても、良い写真にはならない。逆に、撮り手のあつかましさや思慮の浅さが透けて見えてしまうことも少なくないと思う。

被写体が人物の場合、互いの間の「気持の距離」が、その時、どんなバランスになっているのかを見極める必要がある。場合によっては、少し離れた場所から一定の距離を保って撮らせてもらった方が、その人との「気持の距離」を素直に伝えられたりもする。一定の距離があるからこそ伝えられる感情や思いも、世の中にはたくさんあるからだ。

物理的な「距離の近さ」ではなく、本質的な意味での「距離の近さ」を見る者に感じさせる何かが写真にあるとしたら、その正体は、被写体に寄り添う撮り手の気持そのものだと思う。一方的な思いを写真にねじ込むのではなく、フレームの外からそっと寄り添うように、被写体を近しく思う気持を届けられているかどうか。気持が寄り添っていることを伝えられている写真なら、物理的な距離は近くても遠くても、本質的には関係ない。さらに言えば、被写体が人物であろうと動物であろうと風景であろうと、撮り手の気持が被写体に寄り添っているかどうかは、必ず写真ににじみ出る。それはもう、確実に。

僕もできるだけ、常に被写体に寄り添うような気持で、写真を撮り続けられたら、と思う。

写真を通じて世界を愛するということ

昨日、渋谷で開催中のソール・ライター展を見た後、雑誌か何かで「ソール・ライターのような写真を撮るためのテクニック」という趣旨の記事を見かけた。構図の選び方、キーカラー、鏡やガラス、雨や雪の日、覗き見的なアングル……そんな内容だった気がする。もし、ソール・ライター自身が存命で、その記事に目を通したとしたら、たぶん例の調子で、フン、と鼻で笑うだろう。

もし、本当の意味で、彼のような写真を撮ろうとするなら、ニューヨークのイースト・ヴィレッジで、54年間、毎日、写真を撮り続けるしかない。小手先のテクニックと写真の本質は、まったく別のところにある。

完璧な構図、完璧な光線、完璧な配色、決定的な瞬間。すべての要素が完璧に計算しつくされた写真だから喚び起こせる種類の感動があることは否定しない。でも、少なくとも僕の目から見て、ソール・ライターがイースト・ヴィレッジで54年間、日々淡々と撮り続けてきた写真の一枚々々は、けっして狙いすまして撮られた完全無欠の作品ではないと思う。むしろ不完全で、微妙に揺らいでいて、思いもよらない何かが写り込んでいたり、逆に見切れていたり。理屈や計算では説明しきれない部分に、彼の写真の本質がある。

現実の世界は、いつも不完全で、人の思うようにはならないものだ。彼は、写真を撮ることを通じて、世界を愛した。ただただ、イースト・ヴィレッジの日常を、ありのままの世界を、愛していたのだと思う。

脳をとっぷり浸す日

昨日は昼から、渋谷へ。まず、Bunkamura ザ・ミュージアムで一昨日から始まったソール・ライター展に行く。一年半ほど前に彼についての映画を観て以来、この写真展も心待ちにしていたのだが、期待に違わぬ、素晴らしい内容だった。実際にじっくりと拝見させてもらった彼の作品群についての感想は、また別の折にでも書こうと思う。

夕方からは、同じくBunkamuraのオーチャード・ホールで開催された、畠山美由紀さんのデビュー15周年記念ライブ。6名のゲストが入れ替わりながら登場するという、本当に贅沢な内容。圧倒的な演奏と、台本通りにいかないMCがたまらない(笑)。歌と音楽に対する愛情が、ぎゅうっと詰まった3時間だった。

丸一日、眼から、耳から、良質なインプットを注ぎ込んで、滋養の海に脳をとっぷり浸すことができた。こういう日は、時折必要だなあ、と思う。

運命の巡り合わせ

運命の巡り合わせ、という言葉がある。その人にとって、偶然という一言で片付けるには不可思議に思えるような出来事がいくつか続いた時に、よく使われる言葉だ。

僕は数年前から、とても個人的な動機で、アラスカを取材をしている。その動機が生まれた背景には、いくつかの出来事があったのだが、それらについて近しい人に話すと、ほとんどの人が口を揃えて「それは運命の巡り合わせじゃないですか」と言う。確かに、そう言いたくなるのもわかるような、不可思議としか言いようのない符合が(20年以上前から)あった。でも僕自身は、それらの出来事を「運命の巡り合わせ」という言葉であっさり片付けてしまいたくはない、という気持でいる。

この世界は、目には見えない運命というものに支配されてなどいない。人が生きていく中で起こるたくさんの出来事の中から、何を感じ、何を選び、何をするのかは、その人自身が決めることだ。そうして選んだ道は、時には、もしかするとどん詰まりになるかもしれないけれど、そうなったとしても、僕は後悔はしない。自分で考えて、選んだ道だから。

運命なんか、アテにして、たまるものか。

ランダム表示

このサイトのヘッダに表示される写真を、アクセスのたびにランダムに表示が切り替わる形に変更してみた。特に深い理由はなく、単なる気まぐれで。

写真は今のところ、合計で6枚。いずれもアラスカで撮影した写真。気が向けば、また何の前触れもなく、しれっと追加するかもしれない。それもまた、気まぐれで。

アラスカの写真と、そして文章。いつか、納得のできる形で、まとめられるといいなと思っている。それがいつになるのか、今はまだ皆目見当もつかないけれど。