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「エモい」について

この間、僕のタイ写真展「Thailand 6 P.M.」を見てくれた年下の知人から、「あの写真は……エモいですね!」という褒め言葉をもらった。自分の写真を「エモい」と言ってもらったのは初めてだったのだが、そもそも「エモい」という言い回しにはどういう意味が込められているのか。ちょっと検索してみると、面白いことがわかった。

もともとは、音楽のエモーショナル・ハードコアからきている言葉だそうで、感情的でメロディアスなさまを「エモい」と形容していたのだとか。そこから少し間が空いて、2016年頃から「なんかうまく説明できないけど、ぐっときた」というような意味合いで「エモい」という言い方が世間でよく使われるようになったらしい。

僕自身は、自分の写真や文章が「エモい」のかどうかはわからないし(撮り手や書き手本人はたいていそうだと思う)、何をどうすれば「エモい」作品を生み出せるのかもわからない。ただ、「うまく説明できないけど、ぐっとくる」部分をどこかで意識しておくのは、すごく大事だと思う。ロジックや計算はプロとして常に意識しておくべきことだけど、「エモい」と思わせる要素の源は、どうやらその計算枠からちょこっとはみ出した部分にあるように思うのだ。

計算し尽くされた構図や色彩、すらすらと読める流麗な文章。そこから、ちょこっと、はみ出してみる。そういうチャレンジをしていければ、と思う。

どっしりとしたもの

最近になって気付いたのだが、僕はどうやら、軽やかなものよりも、どっしりとしたものの方が好きらしい。コーヒーは昔からもっぱら深煎りだし、ビールならIPA、ウイスキーならスモーキーなフレーバーの方がいい。

文章も、何も考えずにさらっと読めてしまうものより、わかりやすさは維持しつつも、一言々々に余韻がにじみ出るような文章を書きたいと常々思っている。写真もそうだ。パッと見が派手で映えるものより、被写体の存在感がじわじわと伝わってくるような写真を目指すようになった。

こういう僕はたぶん少数派に属する人間だし、僕が手がける文章や写真も、多数派に受け入れられるものではないのかもしれない。まあでも、それはそれでいいか、と思う。ちゃんとしたものを作れば、それはきっと意味のある形で残る。

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ケン・リュウ『母の記憶に』読了。とにかく上手いし、アイデアも多彩。『紙の動物園』でも感じたのだが、彼のルーツである中国やアジアの血脈を感じさせる作品に特に惹かれる。この本では揚州大虐殺をテーマにした「草を結びて環を銜えん」と「訴訟師と猿の王」の2作が凄かった。

一年ぶりの丹沢表尾根


昨日は朝の4時に起きて、電車に乗って秦野へ。ヤビツ峠から塔ノ岳まで、丹沢表尾根を歩いてきた。ヤビツ峠のバス停から登山道の入口まで歩いて行く途中でいつも気になっている、謎めいた看板。

Laos, from Dawn till Sunset

真似と分析

文章にしろ写真にしろ、あるいは他の芸事にしろ、好きな作家の作品を真似することが上達の近道、と指南している例を時折見かける。それはまったく間違っているわけではないけれど、ただ闇雲に好きな作品の真似をするだけでは、レベルアップするのは、真似の精度だけだと思う。

自分はなぜその作品を良いと思うのか。その良さはどこからどのようにして現れているのか。作家はそのためにどんな工夫をしているのか。それらを一つひとつ仔細に分析して、自分なりの理屈に落とし込んでいくと、それを自分の作品に照らし合わせた時、自分の良い面と足りない面がわかってくる。そういった分析のための作業として好きな作品の模倣をしてみるのであれば、悪い方法ではない。

ただ……本当にすごい作品は、そうした小賢しい分析すらも軽々と凌駕してしまう、理屈からはみ出してしまうような「何か」を持っている。それは、けっして技術的なものさしでは測れないものだ。自分だけの「何か」を掴み取るために、書き手や撮り手や描き手は、今日も魂をすり減らしている。