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奥多摩散策

ひさしぶりに遠出。といっても、同じ東京都内の奥多摩へ。ずいぶん昔に一度歩いたことのある、奥多摩湖から奥多摩駅までのハイキングコースをまた歩いてみた。この間新しく購入したばかりの、リコーのGR DIGITAL IVの試し撮りもかねて。まずは、奥多摩駅からバスに乗ってやってきた奥多摩湖にある、小河内ダムの水門。

ひさしぶりの自転車

いい天気。今日を逃すと当分チャンスがなさそうだし、自転車に乗ることにした。紫外線が凄そうなので、念のために日焼け止めを塗って、いざ出発。Tシャツとクロップドパンツでも暑いくらいだ。

選んだのはおなじみの、野川公園から野川、二子玉川、多摩川と回るコース。本当は、先月の桜の時期にこのコースを回りたかったのだが、忙しくて時間が作れなかった。でも、今日は今日で、野川沿いの景色は新緑で眩しいくらいに綺麗だった。魚採り網を手に、川に入ってはしゃいでる子供たち。川べりの遊歩道をぶらぶら歩いてる老人たち。僕と同じように自転車に乗ってる人も多い。やたら長いレンズと三脚をつけたカメラを持ち歩いてる人も多いな(笑)。

二子玉川から多摩川にかかる橋を渡ると、「‥‥何のフェスだ?」と訝りたくなるほど、ものすごい数の人たちが河川敷でバーベキューをしていた。肉の焼ける匂いと煙でむせかえるほど(苦笑)。休みの日の多摩サイは、ふらふらと危なっかしげに歩く人が多い一方で、シャカリキにロードレーサーを飛ばす人もいて、危なくて気が抜けない。

登戸茶屋でコーラを飲んで休憩。登戸から鶴川街道までは、左岸の車道を走ってみることにした。ある意味、こっちの方が多摩サイより安全かも。ギヤをトップに入れてしばらく走ってみたが、帰りの深大寺あたりの上り坂で、あっさりと脚が動かなくなってしまった。なまってるなあ、身体‥‥。去年の夏にラダックで増殖したヘモグロビンも、普通の人並みに戻ってしまったようだ。

ガイドブックが校了すれば、しばらくはそんなに忙しくならなさそうだし、自転車とか、登山とか、ちょっとがんばってみるか。

冒険家にはなれない

三年前に「ラダックの風息」を出して以来、「ヤマタカさんは、冒険家なんですね!」みたいな扱いをされることがよくある。間違いです。僕は、基本的にはヘタレなのだ。

重いカメラバッグを担いで、ラダックやザンスカールの山の中を歩き回ってはいるけれど、それはサポートしてくれる現地人の仲間がいてこそで、自分一人では、サバイバル能力のカケラもない。確かに、今まで何度か危ない目には遭ったが、それは想定外の悪天候などの要素も絡んでいるし、普段はできるだけリスクを冒さないように行動している。

うまく言えないが‥‥「一か八かの困難に挑戦して、それをクリアする」ことを「冒険」と呼ぶのなら、僕はそういう「冒険」を最終目標にする類の人間ではないのだと思う。僕がラダックやザンスカールの山々に分け入るのは、歩いてしか行くことができない場所にある風景や、動物や、人々に会いたいからだ。頂点に辿り着く達成感より、谷間を歩く愉しさを味わっていたいのだと思う。

なので、僕は冒険家にはなれない。

山に登る

今日は昼から仕事をする予定だったのだが、気が変わって、神保町のアウトドアショップのセールに出かけてきた。

前から目をつけていたゴアテックスのジャケットが、通常よりちょっとお買い得になっていて、サイズも残っていたので、思い切って購入。それに合わせるミドルレイヤーなども、店員さんと相談しながら買い揃えた。ふー。新年早々、大人買いをしてしまった‥‥。まあ、今まで使っていたゴアテックスのジャケットは、かれこれ十数年も前に買ったもので、ラダックでの酷使でもうボロボロだったから、必要な買い物だったのだけれど。

これで僕の山道具も多少充実してきたので、今年は、もう少し暖かくなってきたら、東京近郊の山を中心に、積極的に出かけようと思う。それが、今年の抱負といえば抱負かな。

父について

2011年7月27日未明、父が逝った。71歳だった。

当時、父は母と一緒に、イタリア北部の山岳地帯、ドロミーティを巡るツアーに参加していた。山間部にある瀟洒なホテルの浴室で、父は突然、脳内出血を起こして倒れた。ヘリコプターでボルツァーノ市内の病院に緊急搬送されたが、すでに手の施しようもない状態で、30分後に息を引き取ったという。

父の死を報せる妹からのメールを、僕は取材の仕事で滞在中だったラダックのレーで受け取った。現地に残っている母に付き添うため、翌朝、僕はレーからデリー、そしてミラノに飛び、そこから四時間ほど高速道路を車で移動して、母がいるボルツァーノ市内のホテルに向かった。

車の中で僕は、子供の頃のある日の夜のことを思い出していた。その夜、僕たち家族は車で出かけて、少し遠くにある中華料理店に晩ごはんを食べに行ったのだ。店のことは何も憶えていないが、帰りの車で助手席に坐った時、運転席でシフトレバーを握る父の左手にぷっくり浮かんだ静脈を指でつついて遊んだことは、不思議によく憶えている。指先に父の手のぬくもりを感じながら、「もし、この温かい手を持つ人が自分の側からいなくなったら、どうすればいいんだろう?」と、不安にかられたことも。

翌朝、病院の遺体安置所で対面した父は、まるで日当りのいい場所で居眠りをしているような、綺麗で穏やかな顔をしていた。腹の上で組まれた父の手に、僕は触れた。温かかったはずのその手は、氷のように冷たく、固かった。

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