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「秒速5センチメートル」

秒速5センチメートル。それは、桜の花びらが舞い落ちる速度なのだという。

Apple TVで、新海誠監督の「秒速5センチメートル」を借りて観た。「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」という連作短編アニメーション。幼い頃に知り合って心惹かれていた二人が、離ればなれになり、やがて大人になっていく。渡せなかった手紙。言えなかった言葉。いつか辿り着けると信じていた場所。二人の間を通り過ぎていく時間が、優しく、そして残酷に描かれている。

この作品では、わかりやすいカタルシスを味わえるような出来事は、何も起こらない。ただただ、届かなかった想いを抱えて生きていくことの苦しさとせつなさが、これでもかというほど美しい映像(特に第三話のラストに連なるパートの加速感!)に重ね合わされて映し出される。それでも彼らの、僕らの人生は続いていく。その先には、桜の舞い散る道が続いている。

‥‥余談だが、主人公の名前の読みが僕の名前と同じなので、観ている間、ずいぶん気恥ずかしい思いをした(笑)。

「明りを灯す人」

美しい自然に恵まれた中央アジアの小国、キルギスのイシク・クル湖畔を舞台にした映画で、主人公は小さな村で「明り屋さん」と呼ばれる電気工、ときたら、きっと、ほのぼのと心穏やかになれる映画に違いない。先週観た「息もできない」が重いテーマの作品だったので、バランスを取りたいなと思ってこの「明りを灯す人」を選んだのだが、どっこい、ある意味、先週以上に重く、悲しい映画だった。

主人公の「明り屋さん」は、料金を払えない貧しい家の電気メーターを細工してタダで使えるようにするなど、困った人を見過ごせない、純朴で優しい男。彼の夢は、村の対岸の峡谷に発電用の風車をたくさん建てて、村に電気をもたらすこと。妻も幼い娘たちも、村人たちも、そんな彼を愛していた。だが、キルギスという国の政治は混迷の度を増し、ロシアや中国といった大国から押し寄せる激しい変化の波は、彼らの小さな村にも押し寄せる。貧しいながらもキルギス人としての誇りを持ち続ける「明り屋さん」の行末は——。

実際、終盤にさしかかる直前までは、本当にのどかでほのぼのとしたテンポで(途中に凶兆は差し込まれるのだが)話が進むので、物語の結末との落差には、多くの人が唖然とするに違いない。でも、主人公の「明り屋さん」が、キルギスという国と人々そのものを体現している存在と考えれば、この結末になるのも納得できる。それだけ、現在のキルギスを取り巻く状況は苛酷なのだ。国内政治は混乱を極め、2010年の民族紛争では多くの血が流れ、ロシアや中国の資本に思うように蹂躙され‥‥。それでも、風車が鎖を引きちぎって再び回り、ささやかな明りが灯される日が、きっと来る。自身で主演を務めたアクタン・アリム・クバト監督は、そんなメッセージを込めたかったのに違いない。

僕が好きなシーンは、村の男の子が高い木によじ登って降りられなくなったのを、「明り屋さん」がロープを肩に助けに行く場面だ。自らの危険も省みずに、男の子が枝にしがみついている場所にまで登った「明り屋さん」は尋ねる。「どうして、こんなところにまで登ったんだ?」

男の子は答える。「見たかったんだ。山の向こうを」

六月のような十月

午後、映画を観に渋谷方面に出かける。何だか蒸し暑い。十月なのに、まるで六月頃のような天気だ。

途中、表参道にある店に寄って、前から目をつけていたジーンズを購入。ジーンズを買ったのは本当にひさしぶりだったのだが、ウエストが30インチでぴったりだったので、ひと安心。太ってなかった(笑)。

その後に観た映画は——たぶん明日レビューを書くけど——先週観た映画が結構重い内容だったので、今週はほのぼのした牧歌的な映画を選んだつもりが、ある意味、先週以上に重かった(苦笑)。どよーん、とした気分を晴らすべく、新宿に移動し、アカシアでピルスナービールとビーフシチューのプチ贅沢。蒸し暑かったので、ビールがうまい。

まあ、映画はいい映画だったし、ジーンズは買えたし、おいしいものも食べられたしで、いい休日だったかな。

「息もできない」

痛ましい映画だった。悲しくて、もどかしくて、どうにもやりきれない。最後まで、救いの欠片すら見当たらない。

息もできない」の主人公サンフンは、借金の取り立てを生業とするチンピラ。母と妹を死なせた父に対する憎悪に苛まれたまま、他人を暴力で傷つけることでしか生きていけない男。そんな彼がふとしたことで出会った勝気な女子高生ヨニは、心を病んだ父と荒れ狂う弟との間で、絶望に蝕まれていた。互いの心の傷の理由を知らないまま、二人は次第に惹かれあい、夜の漢江のほとりで涙を流す。だが苛酷な運命は、容赦なく彼らを押し流していく——。

一番近しい、大切な存在であるはずの家族ですら、傷つけずにはいられない人々。相手を殴りつけるサンフンの拳が血に染まり、ガツッ、グシャッと生々しい音が響くたび、観る者は思い知らされる。彼は、自分自身をも無惨に傷つけているのだと。

この映画で、製作、監督、脚本、編集、主演の5役をこなしたヤン・イクチュンは、これが初の長篇監督作品。彼自身、家族との間に問題を抱えたまま生きてきて、そのもどかしい思いを、作品として吐き出してしまいたかったのだという。自分の家を売り払ってまで製作費を捻出し、文字通りすべてを注ぎ込んで作り上げたこの「息もできない」は、彼にとって「作らずにはいられなかった映画」なのだろう。作り手として、「これを作らなければ、一歩も前に進めない」という抜き差しならない気持は、少しわかる気がする。僕自身、そういう思いにかられて本を書いたことがあったから。

ストーリーが比較的単純で伏線の先が読めてしまうとか、韓国映画特有の冗長な描写があるとか、いろいろ言いたい人はいると思う。でも僕は、この作品の評価をそんな上っ面なところでしてしまいたくない。「作らずにはいられない」という思いで、ヤン・イクチュンが自らの魂を削って作り上げたからこそ、この映画は観る者の心を動かすのだから。

「ソーシャル・ネットワーク」

夕方頃までに仕事が落ちついたので、ひさしぶりにApple TVで映画をレンタルした。選んだのは、観たいと思いつつも映画館に行きそびれてしまった「ソーシャル・ネットワーク」。世界最大のソーシャル・ネットワーク・サイト、Facebookの誕生にまつわる実話のエピソードを、デビッド・フィンチャーが映画化した作品だ。

ハーバート大学に通うマーク・ザッカーバーグは、天才的なプログラミング能力の持ち主だが、大学のクラブに入れないことなどを根に持つ劣等感のカタマリ。女の子にふられた腹いせに、大学のサーバをハッキングして女子学生の人気投票サイトを作ってしまうなど、性格は最悪(苦笑)。だが、それが一種のきっかけになって生み出されたFacebookは、あっという間にアメリカを、そして世界を席巻し、5億人のユーザーが集まる巨大ネットワークに成長する。一気に億万長者へと昇り詰めていく過程の裏で、結果的にマークは、何人もの人を、そして唯一の親友をも裏切ることになってしまう‥‥。

友人との関係をよりよいものにするために使われている世界最大のソーシャル・ネットワークが、まさか、こんなギスギスした人間関係の中で生み出されたとは、想像もしていなかった。正直、こんな会社で働きたくはないな(苦笑)。周囲の人との関わりを大切にしてこそ、仕事で何かを成し遂げることに価値や喜びが生まれると思うのだが‥‥。

5億人のユーザーが集まるソーシャル・ネットワークを作り上げた男は、孤独の中にいる。ラストシーンにかすかな救いがあったのでちょっとほっとしたが、現実の世界に生きるマーク・ザッカーバーグは、はたして今、どんな思いでいるのだろうか。