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「風立ちぬ」

「風立ちぬ」

宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、観る人によって極端に評価が分かれる作品だと思う。男性と女性とでは受け止め方がまるで違うだろうし、夢見心地のファンタジーや血湧き肉踊るカタルシスを求める人には肩すかしだろう。「沈頭鋲」とか言われても、子供にはチンプンカンプンだろうし。今までのジブリ作品のように、100人中100人が「面白い」と思う映画ではない。

でも僕は、それでよかったんじゃないかなと思う。これは、宮崎監督自身も未だに答えを見出せない衝動に突き動かされて作られた作品だ。個人的な動機で生まれた作品にしか宿らない力のようなものは、確かにある。その力は、すべての人には届かないかもしれないが、届く人には、心の深いところを揺さぶることができる。

「美しい飛行機を作りたい」という幼い頃からの夢を抱いて成長した青年は、自分の設計する飛行機が人殺しのために使われると知りつつも、その矛盾を抱えたまま仕事に没頭する。最愛の妻が病の床に伏しても、彼は仕事から離れることができない。彼が設計した美しい飛行機、九試単戦が軽やかに空を舞った時、彼の脳裏をよぎったのは‥‥。

わかりやすい答えや救いは、何も示されない。青年は苦い思いを噛みしめながら、飛行機の墓場のような荒野に佇む。それでも彼は、生きていかなければならない。どれだけズタズタに引き裂かれたとしても。

それはたぶん、僕たちも同じだ。

大事なものは面倒くさい

今日もずいぶん涼しくて、過ごしやすい。終日、部屋で原稿を書く。

今回の原稿も、全体の形はだいぶ整ってきた。とはいえ、細かい部分の煮詰め具合はまだまだ。耳ざわりのいいきれいな言葉より、シンプルで端的な描写。文字数の制約もあるのでなかなか難しいけれど、それでも少し間を空けては見直して、修正をくりかえしていく。

夜、「プロフェッショナル 仕事の流儀」の宮崎駿監督特集を見る。絵コンテで壁にぶち当たって苦しむ監督が、「大事なものは、たいてい面倒くさい」と呟いていたのが、心に刺さる。そう、面倒くさいのだ。ものづくりにしろ、他の仕事にしろ、面倒くさい部分を避けていたら、何の意味もないし、もちろんいい結果も出ない。

今の自分も、思うようにならずに苦しんでいるうちは、まだ恵まれているのかもしれないな。

「スタンリーのお弁当箱」

「スタンリーのお弁当箱」

昨日は、シネスイッチ銀座で公開中の「スタンリーのお弁当箱」を観に行った。今年に入って、すでに何度目かのインド映画鑑賞。まさかこんな日々が来るとは(笑)。

芝居っ気と茶目っ気で学校でも人気者のスタンリーは、なぜか学校にお弁当を持ってこない。昼休みになっても、みんなに嘘を言って外に出ては、水道の水を飲んでごまかしたりしている。見かねたクラスの友達は、スタンリーにお弁当を分けてあげるのだが、異様なまでに食いしん坊のヴァルマー先生が、それを見つけてひと悶着‥‥。

この作品は、毎週土曜日に学校で開催する映画のワークショップとして、デジタル一眼レフで撮影された映像を基に作られた。登場する子供たちは、最後の最後まで映画撮影だとは知らなかったそうで、キアロスタミの作品を思わせる自然で柔和な表情も、それで納得がいく。アモール・グプテ監督は、類まれな芸術の才能を持つディスクレシア(発達障害)の少年を主人公にしたアーミル・カーン監督・主演作「Taare Zameen Par」において、脚本などで深く関わった人だそうだ。その時の経験から、子供たちに負担をかけずに自然な表情を捉えるために、こういう撮影方法を選んだのだろう。

この作品の宣伝コピーや予告編などを見ると、子供たちがとにかくかわいくて、うまそうなインドのお弁当がたくさん出てくる、ほっこり系映画なのかというイメージを持つ人も多いと思う。そういう側面もあるにはあるが、それでは正当な評価にはならない。この作品には芯にぴしっと一本通った形で、確かなメッセージが込められている。杓子定規な学校教育、理不尽な貧富の差、子供に対する虐待や労働の強制。それはまぎれもなく、今のインドの社会に対する痛烈な批判だ。ハッピーとは言い切れないエンディングまで観終わると、グプテ監督の意図は最初からそこにあったのだとわかる。

スタンリーのような、あるいはもっと苛酷な環境に置かれている子供は、インドには数えきれないほどいる。この映画を観たら、映画には出てこないそんな子供たちのことにも思いを馳せてもらえたらと思う。

届くべき人のところへ

この間観た映画「きっと、うまくいく」(3 Idiots)が、本当に大ヒットになっているらしい。一週目より二週目、そしてさらに三週目も動員数を伸ばしているそうで、上映館も大幅に増加。その影響で、映画のクライマックスが撮影された舞台のラダックに興味を持つ人も出てきているのか、「ラダックの風息」はアマゾンで補充が追いつかずに一時在庫切れ。「ラダック ザンスカール トラベルガイド」も在庫僅少な状態がずっと続いている。

今回のブームがどのくらい続くのかはわからないけれど、それに一喜一憂したりはしない。ただ、この二冊は、周りから「ラダック? 知らない」だの「そんなの誰も読まない」だの言われようと、自分が「これでいいんだ」と信じて、コツコツと作り上げた本だ。何十万冊もバカ売れするような本ではないけれど、たとえば今回の映画のようなきっかけでラダックに興味を持つ人が新たに現れたら、この二冊は、何かしらの役に立つかもしれない。ほんの少しだけ、その人の人生を動かすかもしれない。

信念を曲げずに、心を込めて本を作れば、いつか、届くべき人のところへ届く。そういう手応えを感じられることが、何より嬉しい。

「サニー 永遠の仲間たち」

「サニー 永遠の仲間たち」

先日観た「きっと、うまくいく」についてのWeb上での反応を見ていたら、かなり多くの人が、この「サニー 永遠の仲間たち」と比べて感想を書いていた。僕もこの映画の予告編を目にした記憶はあったのだが、本編は見逃してしまっていたので、Apple TVで借りて観てみることにした。

「セブン・シスターズ」とは、韓国ではトラブルメーカーの高校生を意味する隠語なのだという。この映画の七人の主人公たちは、文字通りのセブン・シスターズ。ラジオ番組から「サニー」というグループ名をつけてもらった七人は、向かうところ敵なしのハチャメチャに楽しい日々を過ごしていた。ある事件が起こるまでは‥‥。それから25年。余命二カ月の末期ガンに侵された元リーダーのチュナは、病院で偶然再会した仲間のナミに言う。「死ぬ前にもう一度、サニーのみんなに会いたい」と。

1980年代と現代のソウルを行き来して展開されていく物語。記憶の中の日々は明るい色彩と輝きに満ちていて、誰もが希望にあふれた人生と、変わることのない友情を信じて疑わなかった。散り散りになっていた今の彼女たちは、それぞれの事情やしがらみのせいで、必ずしも思い描いていた人生を歩めてはいない。それでも、チュナの呼びかけをきっかけに、彼女たちは気づくのだ。もう一度、なろうと思えばなれるのかもしれない。自分自身の人生の主役に。

チュナの余命という重い軸はあるものの、80年代のポップ・チューンに彩られたこの作品のトーンはとても軽やかで、コミカルな場面もたくさんある。だからこそ、観ていて余計にせつなくなる。もう、取り戻すことのできない時間。それでも、彼女たちは軽やかにステップを踏む。何度も、何度でも。