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「ライフ・イズ・ビューティフル」

Filmarksのリバイバル企画で、「ライフ・イズ・ビューティフル」が期間限定で上映されると知り、観に行くことにした。ずっと以前、レンタルで観たことはあったのだけれど、スクリーンで見届けておきたい、と思って。新ピカに足を運んでみたら、小さめのスクリーンとはいえ、場内ほぼ満席。しかも思いのほか、若い人が多い。何だか少し嬉しくなった。監督と主演は、ロベルト・ベニーニ。

物語の前半は、陽気なお調子者のユダヤ系イタリア人グイドと、裕福な家庭に生まれた小学校教師ドーラとのなれそめが描かれる。そこから何年かが過ぎた後半は、第二次世界大戦末期にグイドたちが巻き込まれた、過酷な運命が描かれていく。前半では、グイドのお調子者っぷりがとにかくすごくて、主人公がずっとこの調子でぶっ飛ばしてて大丈夫?と思うほどなのだが、物語が暗く凄惨な舞台に移る後半では、そうしたグイドの変わらぬお調子者っぷりこそが、息子のジョズエを励まし、救っていくことになる。最後の最後までお調子者を貫き通したグイドの姿は、以前観た時も、今回も、深く深く胸に残った。

同時に思う。当時のホロコーストであれだけ凄惨な目に遭わされたユダヤ系の人々の子孫の一部が、八十年の時を経て、ガザで何万人ものパレスチナ人を殺戮し続けているのは、なぜなのだろう。僕には、どうしても理解できない。人間の業とは、かくも深きものなのだろうか。

「私たちが光と想うすべて」


2024年のカンヌ国際映画祭で、パルム・ドールに次ぐ賞であるグランプリを受賞したインド映画「私たちが光と想うすべて」。パヤル・カパーリヤー監督は、初めて手がけたこの長編劇映画での受賞を機に、世界各国、そしてもちろん、インド国内でも注目されるようになった。

雨に濡れ濡ったムンバイの街で暮らす人々。海外に働きに出たまま音信不通となっている夫を持つ、看護師のプラバ。年下の同僚でルームメイトのアヌは、イスラーム教徒のシアーズと秘密の交際を続けている。病院の食堂で働くパルヴァティは、高層マンション建設のために住処からの立ち退きを迫られている。ヒンディー語をうまく話せない医師のマノージは、不在の夫を持つプラバに密かな思いを寄せている。そんなある日、故郷に帰るというパルヴァティに付き添って、プラバとアヌは海辺の村を訪れる……。

貧富の差。男尊女卑。異なる宗教。異なる母語。さまざまな格差やしがらみ、あるいは断絶に、ままならない人生を過ごす人々。ものすごく劇的な出来事が起きるわけではなく、わかりやすい答えが用意されているわけでもない。にもかかわらず、電飾で彩られた海辺の食堂を遠くから捉えた最後のシーンに、胸の裡がほんのりと温かくなったのは、なぜだろう。

この映画でとりわけ印象に残ったのは、夜のアパートの窓辺で、プラバがスマートフォンのライトで手元を照らしながら、マノージから贈られた手帳に書き留められた詩を読む場面だ。背後の窓の外にはムンバイの夜景が広がり、列車が高架線路をガタンゴトンと走っていく。本当に美しい映像で、あの場面を見れただけでも、映画館に足を運んだ甲斐があったと思えた。

「レオ:ブラッディ・スウィート」


「囚人ディリ」「ヴィクラム」に続く、ローケーシュ・カナガラージ監督の「ローケーシュ・シネマティック・ユニバース」(LCU)作品の第三弾「レオ:ブラッディ・スウィート」。主演はヴィジャイ、ヒロインにトリシャー、敵役になんとサンジャイ・ダットという豪華な顔ぶれ。

舞台は、ヒマーチャル・プラデーシュ州の小さな街。カフェのオーナーで、野生動物の保護活動もしている(凶暴なハイエナも手懐けて飼ってしまう)タミル人のパールティバンは、ある日の夜、店に押し入ってきた強盗団から娘と店のスタッフを守るため、全員を一人で叩きのめして射殺してしまう。裁判で正当防衛が認められたものの、ニュースに取り上げられたパールティバンの写真を見て、ある闇の組織が彼をつけ狙いはじめる。彼らはなぜか、パールティバンを「レオ」と呼ぶ。レオとはいったい何者なのか……。

物語の基本的な構造は、僕は未見なのだが、デヴィッド・クローネンバーグ監督の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」という作品にヒントを得ているらしく、似ている部分も多いという。まあ、パールティバンは最初からあまりにも強すぎるので、普通の一般市民と考えるのは、誰が見てもさすがに無理がある。だから、結末までの道筋も何となく予想できてはいたのだが……最終盤でさらに超絶強すぎるヴィジャイが現れてしまった。いや、まじで強すぎ。たった一人でかよ、と……。

ただ個人的には、物語の中盤から幾度となく描かれていた、自らが犯した暴力や殺人行為に対するパールティバンの苦悩や逡巡や後悔の積み重ねが、最後の最後にすべて完全に裏返ってしまったことに、何というか……薄気味悪さのようなものを感じた。今作では描かれなかったパールティバン、あるいはレオの本当の心の内面は、これからLCUで続いていくであろう物語で描かれるのだろうか。

あと、ヒマーチャル・プラデーシュ州に、野生のハイエナはいるのだろうか。いなさそうな気がする……(苦笑)。ユキヒョウやオオカミなら生息地的にありえなくはないが、物語で描かれたような凶暴性を持たせるには、ハイエナの方が適役と判断したのかもしれない。まあ……映画だから(笑)。

「囚人ディリ」


インド・タミルのローケーシュ・カナガラージ監督が手がける映画作品群「ローケーシュ・シネマティック・ユニバース」(LCU)。今月初めに観た「ヴィクラム」はその第二弾で、先週から日本で公開されている「レオ:ブラッディ・スウィート」(来週あたり観に行こうと思案中)は第三弾となるのだが、LCUの最初の作品であるカールティ主演の「囚人ディリ」は、僕はまだ未見だった。池袋の新文芸坐で上映されるとの情報を得て、昨日の夜、観に行ってきた。会場はほぼ満席でびっくり。

妻を守るために暴漢たちを殺めてしまい、刑期に服す間にその妻にも先立たれてしまったディリは、釈放された後、一度も会ったことのない娘に会うため、彼女が暮らす孤児院を目指す。しかし、大量のコカインを押収した警察と、それを取り戻そうとするギャング団との争いに巻き込まれてしまう。昏睡状態の警官たちを積んだトラックを走らせるディリたちに襲いかかるギャングたち。地下深くに押収したコカインが隠された警察署は、赴任してきたばかりの警官ナポレオンと飲酒運転で補導された学生たちを残して、ギャングたちに包囲されてしまう。暗闇の中で繰り広げられる抗争の行方は……。

「ヴィクラム」のように複雑なトリックを織り交ぜたサスペンスではなく、カーチェイスや籠城戦、あるいはぶん殴りあいといった、シンプルなアクションでグイグイ引っ張っていく構成で、単純にエキサイトして楽しめる。冒頭にちらっと出た台詞で「これは伏線だな……」と予想はしていたが、最後にあれをぶっ放しまくったのは、あいかわらずの力技だなあ……と思ってしまった。きっと、監督の好みなのだろう(笑)。

「囚人ディリ」から「ヴィクラム」へのつながりも把握できたし(ビジョイ警部……)、これで「レオ」を観る準備は整った。さて、どうなるか。

「ヴィクラム」


リモート取材の仕事の予定が先方の都合でリスケになり、ぽっかり時間が空いてしまった。水曜だし、映画でも観に行こうと思い立ち、「ヴィクラム」を上映中の新宿ピカデリーに行った。製作と主演のカマル・ハーサンのほか、ヴィジャイ・セードゥパティ、ファハド・ファーシルが、それぞれ強烈なキャラで登場する。監督のローケーシュ・カナガラージは、「囚人ディリ」やこの作品、さらに今月下旬に日本で公開される「レオ・ブラッディ・スウィート」、そしてその後に続く作品群に関連性を持たせ、「ローケーシュ・シネマティック・ユニバース」(LCU)として展開していくのだという。

舞台はチェンナイ。謎の覆面集団による連続殺人事件が発生。捜査に加わった特殊工作員のアマルは、ドラッグの製造と売買で街を牛耳るギャングのボス、サンダナムに目をつける。サンダナムたちは、行方不明になっている大量のコカインの原料の所在を血眼で探していた。だが、捜査を進めるうち、アマルは殺害された被害者の一人、カルナンのことが気になりはじめる。無職の初老の男で、酒好き、女好き、いいかげんでもあり、善人でもある。彼はいったい何者だったのか……。

物語の前半は、アマルの目線で追っていく捜査の行方が、なかなか先の読めない展開で面白かった(さすがに、あの人がいきなり死んで終わるはずはなかろう、とは思っていたが)。ただ、インターミッションを過ぎたあたりで、各陣営の正体と立ち位置がはっきりしてからは、割と一直線にバーッと荒っぽく進んでしまった感がある。「マスター 先生が来る!」でも後半はそういう印象だったが、カナガラージ監督の作品は、クライマックスはひねった展開よりもイキオイ重視、みたいな傾向があるのだろうか。まだそれほど作品を観ていないので、わからないけど。

「復讐ではない」と言うヴィクラムの台詞とはうらはらに、まぎれもなくこれは、復讐の激情にかられた男たちの物語だったと思う。復讐がさらなる復讐を呼ぶであろうこのシリーズの果てには、どんな結末が待っているのだろう。