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はじめてのポテサラ

生まれて初めて、ポテトサラダ、ポテサラを、自分で作ってみた。

ポテサラの作り方には、人それぞれいろんなやり方があると思うが、ちゃんと作ろうとすると、割と手間がかかる。まず、じゃがいもを皮付きのまま、弱火で1時間ほどゆでる。別の鍋でゆで卵を作って、殻を剥く。ゆでたじゃがいもは、熱いうちに手で皮を剥き、ボウルでざっくりつぶす。マヨネーズと粒マスタードを入れて混ぜ、荒く崩したゆで卵と、刻んだクレソンを入れてざっと混ぜ、塩胡椒で味を整える。手際よくやっても、何だかんだで1時間半くらいかかってしまう。

ポテサラは、子供の頃から当たり前のように実家の食卓に上っていた食べ物だったし、今もコンビニやスーパーに行けばほぼ必ず置いてある。だから、自分で作るとこんなに手間のかかる料理だとは、正直、実感できていなかった。当たり前のように手に入るものは、実は当たり前でも何でもないのかもしれない。ポテサラに限らず、どんなものでも。

ともあれ、今回作ってみたポテサラのレシピ、Webで見つけた高山なおみさん作のレシピだったのだが、とても良い感じで作れたので、気に入った。熱々のじゃがいもの皮を剥くときに指をアチチとさせながら、また作ってみようと思う。

もしも「ないがしろ」にされたなら

人間、生きていると、いろんな場面で「あ、自分、この人にないがしろにされたな」と感じることがある。

「ないがしろ(蔑ろ):あってもないもののように軽んじること。また、そのさま(デジタル大辞泉)」

相手が自分を軽んじる理由は、社会的地位や経済力の格差だったり、利用価値がないと判断されたり、差別的な思い込みだったり、確たる理由のない感情的な反応だったり、まあ、いろいろあると思う。たとえば、この間の、政府の新型肺炎対策に伴って休業を余儀なくされた人への補償政策で、フリーランスの人は勤め人の半額程度しか補償されないという案が出されたという件は、フリーランスの人が今の日本でどれだけ軽んじられているのかを、如実に表している。首相自ら「多様な働き方は推奨したけれど、フリーランスという働き方を推奨したわけではない」と国会答弁で言ってるし(フリーランス諸氏、もう自民党に投票するのやめようぜ、苦笑)。

僕みたいに、企業や組織に属することなく、ずっとフリーランスで、しかも職種が物書きや編集や写真という人間は、それはもう、年がら年中、誰かにないがしろにされている、と言っても過言ではない。駆け出しだった頃はもちろん、今でも、しょっちゅうだ。いつも、理不尽な、悔しい思いばかりさせられている。

懸命に頑張った仕事に対して、ありえないほど低い額の報酬を提示されたり。誠心誠意を込めて送った連絡や相談を、何週間、何カ月も放置されたり。その場しのぎの言い訳で、大事な約束を反故にされたり。力のある立場を利用して、明らかに見下した発言をしてきたり。逆に、うわべだけの社交辞令で、適当な言動を寄越してきたり。……あー、思い当たるふしが過去にありすぎて、今更ながら、ムカついてきた(苦笑)。

まあでも、自分より弱い立場の者をないがしろにする人間は、残念ながら、世の中に一定数存在する。そして、そういう人の考えを矯正することは、とても難しい。今までの自分の経験でも、相手の非に対するこちらからの指摘に聞く耳を持つ人は、皆無だった。そういう人は、そういう人なのだ。関わるだけ、時間と手間の無駄だ。

では、もし自分が「ないがしろ」にされたとしたら、どうするか。僕はとりあえず、二つのことを心がけている。

一つは、その相手と関わらないところで、自分の実力で、きっちりと結果を出して、見返すこと。まあ、自分のベストを尽くして最善の結果を目指すことは常に心がけているので、「いつも通りか、いつも以上に頑張る」というだけなのだが。たま〜に、そういう形で、きっちり結果を出して見返すことに成功すると、少なくとも自分の中では、とてもすっきりする(笑)。当の相手は、たぶん何とも思っていないだろうけど。

もう一つは、自分が「ないがしろ」にされたと感じたようなことは、他の人に対して、絶対にしない、ということ。たとえば、細かいことだけれど、相手にとって大事な内容のメールを塩漬けにしたりせず、なるべく早く返信するように心がけているのは、過去に自分が嫌な思いをさせられたから。相手の仕事や経歴はできるだけ尊重したいし、うわべだけの適当な言動であしらったり、まして見下したりは絶対にしない。特にお金の話をする時は、裏表や下心なく、誠心誠意対応する。それでももし、結果的に誰かをないがしろにしてしまった時には、すぐさま全力で詫びる。

そういうことを心がけながら生きていると、身の回りには、しぜんと、良い人間関係だけが残っていくように思う。

QOLを上げる

コロナウイルス禍で不要不急の外出の自粛が叫ばれる昨今(まあそれでも用心しつつ出かけてるけど)、相対的に自宅で過ごす時間が長くなる。ならば、せっかくなので、家の中でより快適に過ごせるように、クオリティ・オブ・ライフとかいうやつを上げてこう、と思い立った。

自炊の時に使うデニムのエプロンを買う。使い込んでボロボロになってたキッチンミトンを業務用のやつに買い替える。台所の棚を整理して、道具や調味料を使いやすい配置に収納する。玄関と洗面所の古くなった蛍光管を新しいのに交換する。

そして今日。ネット接続用のルーターとケーブル類を、ルーター収納ボックスに収納する。

うちにはなぜか、ルーターが3台もある。マンションの屋内配線用のルーター(だと思う)、NTTのルーター、ソフトバンクのルーター(ソフトバンク光なのにNTTのルーターをかまさなければ使えないという不条理さ)。これらを全部繋ぎ合わせて、電源もそれぞれ差して、その上でWi-Fiとバックアップに使うTime Capsuleや、コードレス固定電話の親機や、事務用プリンタも電源とともに繋いでおかなければならない。今まではそれらのルーターや配線が剥き出しになったまま、部屋の隅で魑魅魍魎の鉄男状態と化していたのだった。

で、つい先日、雑誌の記事でサンワサプライのルーター収納ボックスという商品を知って、寸法を見たら、うちで使うのにちょうどぴったりのサイズだった。即決で注文。で、今日届いた。

設営はかなり大変だった。ボックス自体はほぼ組み立て済みだったのだが、魑魅魍魎の回線の再接続が。ネットワークケーブルは間違えないように極力いじらず、電源アダプタケーブルを抜き差しして所定のポジションに通し直し、電源タップの長さが足りなかったので近所に買いに走り(苦笑)、手の甲に軽い擦り傷も作りながら、どうにかこうにかルーターを押し込んでレイアウト。

すべて移設して収納し直し、機器の動作確認も問題なし。いやー、びっくりするほど、すっきり。あの魑魅魍魎が視界から見えなくなっただけで、これだけ見映えが良くなるとは。見た目だけでなく、機器や電源タップを埃から守るのにも、理にかなった収納になった。やった。がんばった。

これぞまさしく、QOLの向上である。にしても、地味なところでばかり上がってるなあ、僕のは(笑)。

無事に戻る

僕が旅に出る時、相方は必ず「無事に戻ってくるんだよ」と僕に言う。

普通の旅なら、日本でも海外でも、事故や怪我や病気に遭遇する確率は、そんなに極端には変わらない。ただ、僕の場合、そういう確率がそれなりに高い場所に赴かなければならないことが、結構ある。いつも用心に用心を重ねて、犯さなくていいリスクは極力避けているし、そのおかげでか、これまではどうにか五体満足無事に戻ってこれている。でも、相方には心配をかけさせてしまって、申し訳ないと思っている。

今年初めに行った旅は、自分が今まで経験した中で、たぶん一番リスクの高い旅だった。出発前から、新田次郎の小説「孤高の人」の結末がちらついて、不安が頭から離れなかった。戻るべき場所ができると、それを失うのが、とてつもなく怖くなる。あの旅の途中で本当にきわどかった時は、「絶対に、ここでくたばるわけにはいかない。戻るんだ。何が何でも、戻るんだ」と、自分で自分に必死に言い聞かせていた。読んでもらえればわかると思うけど、今、本にしようとしているのは、そんな旅の話だ。

来年は、そこまできわどい旅をやらかすつもりはないけれど、やっぱり、「無事に戻る」ことを第一の目標にしようと思う。

知命

本の原稿に追われて、あくせくしている間に、気がつくと、五十回目の誕生日を迎えていた。

五十ともなると、もう、正真正銘のおっさんである。ここ数年の地味なトレーニングの甲斐あって、体力的には十年前とそんなに変わらないか、むしろ前よりやや動ける状態だとは思うが、そうはいっても、やはり、おっさんである。今も、家でボウモアのオンザロックをすするという、典型的なおっさんの行動パターンに従っている。

四十歳のことを「不惑」と呼ぶのは割とよく知られているが、五十歳のことを「知命(ちめい)」と呼ぶのは、意外にあまり知られてないような気がする。知命は、不惑と同じく、論語にある例の有名なくだりの中の「五十而知天命(五十にして天命を知る)」のことだ。

天命……自分にはそんな大層なもの、あるのかしらん、と、しばらく前までは思っていた。でも今は、なんとなく、そういうことだったのか、と腑に落ちるような思いもある。今作っている本が、そのことにつながっていくものの一つになるような気がしている。

とにもかくにも、知命。すっかり、おっさんである。