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頭を下げられない人々

仕事で、日常で、旅先で、いろんな人に出会う。僕はもともと人付き合いのいい方ではないので、誰かと深く関わるのも割と慎重を期する方なのだが、それでもたまに、相手を見誤ったり、本性を見抜けなかったりして、困った目に遭わされることがある。

そういう困った人たちには、かなりの確率で共通している要素がある。それは、「頭を下げられない」ということ。

誰かに対して(時に実害を伴うような)迷惑をかけた場合には、「すみませんでした」と頭を下げる。誰かから明らかに感謝するに値する行為をしてもらった場合には、「ありがとうございました」と頭を下げる。たとえ相手のことを内心快く思ってなかったとしても、下げるべき時に頭を下げるのは、人として当たり前のことだ。だが、僕が遭遇してきた困った人たちは、この当たり前のことができない。その人が頭を下げるのを拒否した瞬間、それはこっちにとって、「あー、ダメだわ、この人」と、その人を見限る決定打になるのに。

まあ、いい年こいた大人になっても頭を下げられない人に対して、今さらこんな初歩的なことを指摘しても、時すでに遅し、なのだろう。こういう人の話題が他の人との間で出ると、たいてい、「あー、あの人ね」と、失笑とともにほかの困ったエピソードがずらずら出てきたりするものだから。

そういう人とうっかり関わってしまった時は、ヤレヤレ ┐(´-`)┌ と呻きつつ、その後できるだけ接触しないようにするしかないかな。

キャンプ・デナリのメッセージ・ノート

この間のアラスカ旅行でキャンプ・デナリに滞在していた時、父の友人だったご夫妻が「うちのキャビンにあったメッセージ・ノートに、章二さんが書いた文章が残っていた」と知らせてくれた。両親は三年前に一度、キャンプ・デナリに泊まったことがあったのだが、母も、父がこんなものを書き残していたとは知らなかったという。

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31〜4/8〜9/2009(4泊5日)

私たち夫婦は定年退職後、世界のあちこちに旅をし、その度に素晴らしい景色や忘れられない体験に出会ってきましたが、ここアラスカ・デナリの秋の旅ほど素晴らしいものはなかったように思う。今日は快晴、朝焼けのマッキンレーから充分に堪能しました。ワンダーレイクの先のバートレイルのトレッキングは、逆光・斜光に輝くアスペンやブルーベリーの黄や赤越しにマッキンレーに向かっていきました。連山は雲の腰帯を巻き、時には鋭い雪嶺が雪を吐いたりしていました。マッキンレー川の広い河原のランチも嬉しいことこの上ない。標高6194m、麓からそびえる高さ5500mは世界一と聞く。何だ! この堂々たる巨大な山塊は。文句なしに威風堂々。

アラスカの山野は意外と女性的で、また湿潤だという印象を受けた。フェアバンクスからデナリまでの列車の旅で充分に黄葉を楽しんだが、デナリの駅から当ロッジまでのバスの旅の車窓風景が何とも素晴らしかった。山岳地帯に広大な河原や湿原(ツンドラ)が続き、野生動物が生を営む姿も見える。カリブー、グリズリー、ビーバー、ムースなども近くに見つけられた。そして、これがアラスカだという印象が日に日に濃く詳細に形成されていく実感がある。

今日でトレッキング3日目。これまでトレッキング・ロードにただの一片のゴミさえもなかった。なんと立派なことか。わが国民は真似ができまい。ロッジのサービスも十二分に満足している。まるで貸別荘のような居心地のいいロッジから、この美しい秋の光景を楽しんでいる。そして美味しい食事。もうすっかり日本のわが家の暮らしも忘れてしまいました。今夕は、夕焼けのマッキンレーが見られるかもしれません。

明日はアンカレッジ、そして、カトマイに行きます。今秋、最高の旅を有難う。デナリ・ロッジよ、アラスカよ。

JAPAN 岡山 山本章二、美枝子

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父のこの文章について、僕が語れることはそう多くない。ただ、言えるのは‥‥父が僕に望んでいるのは、彼ができなかった生き方を、僕がやる、ということだと思っている。

日常への帰還

日本に戻ってきて、一週間が過ぎた。今年の夏は、ラダックとスピティで二カ月弱ほど取材をして、いったん帰国してからまたアラスカに行ったりしてたから、ずっと旅ばかりしていたような気がする。

戻ってきたばかりの頃はなかなかネジが巻き戻らなくて、鍵を持つのを忘れたまま外に生ゴミを出しに行って、オートロックに阻まれてしばらく立ち往生したりという、いつもなら考えられないようなポカをやらかしたりした(苦笑)。そういうズレも、ようやく埋まってきただろうか。

来週からはまた、取材やら打ち合わせやらの日々が始まる。10月と11月には、ラダックをテーマにしたトークイベントをやることも決まった。自分の新しい書籍の企画も、そろそろスタートさせなければならない。旅の空気から完全に抜け出すには、もうしばらくかかりそうだけど。

「おおかみこどもの雨と雪」

細田守監督の最新作「おおかみこどもの雨と雪」は、日本に戻ったらすぐ観に行かなければ、とずっと気になっていた映画だった。で、昨日新宿の映画館に行くと、上映の二時間前からすでに席が売り切れていて、別の映画館でようやくすべり込めたという次第。

東京の西の外れ(国立らしい)の大学に通う花は、人間の姿に身をやつして生きる“おおかみおとこ”と出会って恋に落ち、一緒に暮らしはじめた。やがて二人の間には、雪の日に生まれた姉の「雪」と、雨の日に生まれた弟の「雨」という“おおかみこども”が生まれる。しかしある日、父親の“おおかみおとこ”はあまりにも唐突に命を落とす。大切な心の支えを失った花と二人の子供たちは、東京を離れ、人里離れた山奥の古民家で暮らすようになった‥‥。

人間とおおかみの二つの顔を持つ“おおかみこども”という設定はまぎれもなくファンタジーなのだが、この映画での花と子供たちの暮らしぶりは、とても丁寧で細かく、地味といっていいくらい現実味のある描かれ方をしている。「時をかける少女」のような切なく甘酸っぱい青春物語でもなく、「サマーウォーズ」のように爽快な冒険活劇でもないけど、この「おおかみこどもの雨と雪」では、穏やかで何気ない、でも確かなものが語られている。

子供が成長し、自分の居場所ややりたいことを見つけると、やがて、自分の生き方を選ぶ時が来る。子供にとってそれを選ぶのは覚悟が要ることだが、親にとっても、子供が生き方を選ぶのを黙って見守ることには勇気が要る。僕は親の立場になった経験はないから偉そうなことは言えないけれど、子供が誇りを持って生き方を選べる人間になれるように育てることは、親の一番大切な役割なのではないかと思う。昨年他界した僕の父は、僕が進学や仕事に関わることでどんな選択をしても、ずっと僕を信じて、辛抱強く見守っていてくれた。そのことには、本当に感謝している。

雨が自分の生き方を選んだ時、花は笑顔で「しっかり生きて!」と言った。あのひとことに、この映画のすべてが込められていたような気がする。

つかのまの日常

一昨日の夜、デリーから香港経由で、東京の自宅に戻ってきた。

到着後、旅装をほどいて洗濯を片付け、たまったメールを整理し、カオスと化した郵便ポストの中身を仕分け‥‥。またラジオへの出演依頼が届いたり、仕事の打ち合わせの打診をされたり、何だかんだでばたばたしていた。

今日は、昼に赤坂で仕事の打ち合わせ。終わった後、新宿に移動して、本を二冊買い、映画を観て、ラーメンを食って帰ってきた。日本でのつかのまの日常。というのも、来週後半からは、今度は母への付き添いでアラスカに行くことになっているのだ。正直、僕は団体行動がとことん苦手なたちなので、はたしてどうなることやら‥‥。

とりあえず、日本にいる間は、のんびりするつもりでいる。