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自分で決める

先日の下北沢でのトークイベントに来てくれた方の一人が、Facebookに感想を書いてくれていた。あのイベントでは、僕や関さんが学生時代に経験した大きな挫折がきっかけになって、結果的に今の道に至ったという話をしたのだが、その人は「ああいう生き方は、そこで一歩を踏み出せるからできる生き方だ。自分には踏み出せない」と書いていた。

今の道から踏み出したら、何かを失うかもしれない。でも、踏み出さなかったら、手に入るはずだったものも永久に失われてしまうかもしれない。そういう決断は、時としてとても難しい。あえて踏み出さないことで守れる大切なものがあるのなら、そう決めることも一つの勇気だと思うし。

大切なのは、踏み出すか、踏み出さないか、自分自身できちんと決めることなのだと思う。どちらを選ぶか決めないまま、ずるずる生きてしまったら、結局、後悔しか残らない。自分で決めて選んだ道なら、たとえその先で失敗したとしても、「自分で選んだんだから、ま、しゃーない」と納得できるだろうから。

丑三つ時の妄想

新しいアイデアというのは、ふとしたはずみで出てくるものだが、僕の場合、どうもそのタイミングが丑三つ時に集中している。

そろそろ寝るかとパソコンを閉じ、歯を磨いて、布団をめくって中に潜り込み、スヤァ‥‥となりかけたとたん、文字通り、ぽん、と音を立てるようにしてアイデアが浮かんでくるのだ。それは、本や雑誌記事のテーマだったり、タイトルやキャッチコピーの具体的な文言だったり、その時々によっていろいろなのだが。

薄れゆく意識の中で浮かんできたこのアイデア、翌朝もまあ覚えてるだろうとそのまま寝入ってしまうと、僕はまず間違いなく忘れてしまう(苦笑)。なので、睡魔に抗うようにしてむくりと起き上がり、暗闇の中を居間のデスクまで歩いていって、ブロックメモにそのアイデアを殴り書き。それで安心して寝床に戻る。

で、翌朝、あらためてそのメモを見返してみると、なんでこんなのが珠玉のアイデアに思えたんだろう、という場合がほとんど(苦笑)。でも、昨日の丑三つ時に思いついたアイデアは、今朝になって見返しても、そんなに悪くない。うまく形にできるといいな。こんな風にして僕は本を作っている。

再起動

急な打ち合わせが入り、夕方、赤坂へ。3時間近くみっちり話し合いをして、目下最大の懸案事項が、ようやく動き出した。

思い返せば、3月中旬からGW前半まで、平日はほぼすべて取材で埋まり、休みの日もひたすら原稿書きに追われるというきつい日々だったのだが、GWが明けてからは、嘘のようにぱったりと無風状態になった。前々から仕込まれている仕事はいくつもあったのだが、そのどれもが揃って一時停止に陥って、いきなりヒマになってしまったのだ。こういう激しい波があるから、フリーランスはつらい。

まあでも、そんな無風状態も終わり。今日打ち合わせた案件以外にも、いろいろ動き出しそうだし。ようやく再起動がかかった今、夏から秋に向けて、がんばらねば。

キャベツに先客

冷蔵庫から、実家から送られてきた春キャベツを取り出して、包丁で切ったら、なめくじが二匹出てきた。思わぬ先客。

人にもよるのかもしれないが、僕はこういう状況でなめくじや芋虫に遭遇しても、あんまりびっくりしない。速やかにご退場いただきはするが(笑)、悲鳴を上げたり、食欲をなくしたりとかは全然ない。今日もその後、キャベツ入りミートソースパスタをもりもりおいしくいただいた。

考えてみれば、真っ当なやり方で育てられたおいしい野菜に虫とかがある程度ついてくるのは、当然のことだと思う。逆に僕は、虫食いの跡一つない、つるつるぴかぴかした人工的な雰囲気の野菜がスーパーに並んでると、どんな薬使ってるんだ、とちょっと疑心暗鬼になったりする。だから近所のスーパーでお世話になるのも、もっぱら地場野菜コーナーだ。

野菜もなめくじも人間も、結局、自然の中に組み込まれた一要素でしかないんだよな。

祖父が見ていた色

だいぶ前に亡くなったのだが、母方の祖父は、画家だった。学校で美術の先生の仕事をしつつ、大きな展覧会に入選したり、個展を開いたりしていた人だった。

僕を含めた親戚の子供たちは、時々その祖父のところに集められて、ちぎり絵を作ったり、郊外に写生に行ったりしていた。僕自身は絵が得意なわけでもなかったけれど、ある時、場所は忘れてしまったが、どこか屋外で写生をした時の出来事は不思議によく憶えている。

「高樹、あの木の幹は何色に見える?」
「茶色だよ。だって、木だし」
「本当にそうかな? よく見てごらん。あの幹の影は、藍色に見えないかな?」

そう言って祖父が、水で薄めた藍色を幹の部分にさっとのせたので、まだ小さかった僕はびっくりしたのだった。

空は水色。雲は白。木の葉は緑で、木の幹は茶色。世界の色はそう決まっているのだと、あの頃の僕は思っていた。でも、世界はそんな風には決まっていない。光も色も、音も、匂いも、手ざわりも、その時々ですべて違っている。世界を写し取って誰かに伝えるには、ありのままの姿を感じ、捉えなければならないのだと、祖父は僕に言いたかったのかもしれない。

あれから長い年月が過ぎ、僕は何の因果か、絵ではないけれど、写真や文章を仕事にするようになった。うまく撮ったり書いたりできなくて悩んでいる時、ふと、この出来事を思い出すことがある。そう、この世界は、何一つ、決まってなどいないのだ。