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旅の中でのルーティン

昨日、本の執筆に取り組んでいる時の生活のルーティンについて書いたが、海外に旅に出ている時は何の縛りもなしに過ごしているのかというと、意外と旅の中でも、行く先々で自分なりのルーティンを見つけて、それに沿って過ごしているような気がする。

たとえば、毎朝、宿のロビーで小さなトーストをかじりながらコーヒーをすすったり。毎日同じ道を散歩しながら、同じアングルで違う色の空の写真を撮ったり。いつのまにか顔なじみになった食堂で、注文する前に何のメニューかをウェイターに言い当てられたり。

知らない街を訪れて、あちこち動き回りながら何日か過ごしていると、しぜんと自分にとって心地よいルーティンが生まれてくる。それをくりかえすことに、僕は一種の愉しさを感じている。そんな風にして、同じ場所で同じルーティンをしばらく続けるパターンが、僕の場合は結構多い。

そんな愉しいルーティンにも少し飽きてきたら、次の場所に移動する頃合いだ。

ルーティンに従う

終日、部屋で仕事。タイから帰国して新しい本の執筆・編集作業に入って以来、仕事をする日の行動パターンは、毎日ほとんど同じ。

午前中遅めの時間に起床。シャワーで完全に目を覚まし、ラジオのスイッチをオン。朝昼兼用の食事は、インスタントラーメンと即席うどんとトーストのローテーション。食後にコーヒーをいれ、飲み終えたらラジオを切って、作業開始。夕方、必要に応じてスーパーに食材の買い出しに行き、適当に自炊して晩飯。食べ終えたら作業再開。その日のノルマと決めたところまで進んだら終わり。腕立て伏せ、腹筋、スパイダープランク、スクワット。晩酌のビールは1日おきに1缶。気が向いたらブログを書いて、だらだらネットを眺めて、深夜に寝床に潜り込む。

意外と思われるかもしれないが、僕は、こういうルーティンを守ること自体は、別に苦にならない。特に、本の執筆のように大きな仕事に取り組んでいる時は、ルーティンに従って行動していた方が、余計なことに気を取られずに作業に集中できる。で、そのうち、毎日ルーティンに沿って動き回っている自分を、別のところから客観的に眺めているような気分になってくる。そしてそれが、少し滑稽に思えたりもする。

まあ、物書きの日常なんて、そんなものである。

ムズカシイ本を読むこと

例によって、最近また、まったく読書ができていない。帰国してから約1カ月、想定外の忙しさでばたばたしてるうちに、このていたらく。読みたい本は本棚で何冊も待機してるし、帰国してからも何冊か買い足した。ずいぶん前から読みかけの本もあるのだが、ほかと並行して読んでるうちに、それだけ取り残されてしまっている。

世の中に存在する本は、さらっと簡単に読めてしまうものばかりでなく、読みごたえがあるというか、読みこなすのに骨が折れる、難解な内容の本もたくさんある。そういう本は往々にして手が伸びなくなりがちなのだが、がんばって読み終えると、なんだかちょっと清々しくもなる。そこから身につくことも、たぶん少なからずある。

以前取材した、とある大学の先生が、若いうちにムズカシイ本をがんばってたくさん読んでおくと、あとで読むよりずっと身につく、という意味のことを話していた。それが本当かどうかはわからない。僕自身、確か中学生になるかならないかの頃に、父からヘルマン・ヘッセの全集をあてがわれて、頭を抱えながら読んだ記憶があるが、はたして、それで賢くなれたのかどうか。

ともあれ、来週からのタイ取材、忙しいのは目に見えてるが、とりあえず、読みかけの本は持って行く。もうまったく若くはないけども。

醒めても夢

朝6時に起き、買い置きのランチパックをほおばり、取材道具を携えて、渋谷へ。朝イチからの取材は、通勤ラッシュにも巻き込まれるので、なんだかんだで疲れる。

取材を終えた後、昼過ぎに家に戻る。仕事に取りかかる前にちょっと休もうとソファに横になると、そのまましばらく寝落ちしてしまった。

……目が醒める。なぜだろう、テレビの画面がついていて、音が聞こえる。ステレオの電源が入っていて、CDトレイが開いている。僕の身体の上に、誰がかけてくれたのだろう、毛布がかかっている。誰もいないはずなのに。いったい、誰が?

……本当に目が醒めて、身体を起こすと、テレビはついていないし、ステレオもついていない。身体に毛布もかかっていない。目が醒めたと思ったら、そこもまた夢の中だったのか。

それにしても、奇妙な夢だった。

便利な生活

今日は一日、部屋でゆっくり。おひるにそうめんをゆでてごまだれで食べ、まほろばさんの豆でコーヒーをいれ、InterFMをかけ流しつつ、インドで撮ってきた写真の現像作業。疲れたら、ソファに寝転がってうとうとしたり。

日本での生活は、あらゆることが便利だ。電気は停電することなく常に流れ、シャワーは一定の温度に保たれたお湯がふんだんに出る。本屋に行けば雑誌や本に情報があふれかえっている。インターネットは光回線でYouTubeでも何でも見放題だし、スマホも4G回線でスイスイつながる。友達が今どこで何をしているのかは、SNSでだいたい筒抜け。近所のコンビニまで歩いていけば、たとえ真夜中でも、何でも買える。アマゾンを使えば、家から一歩も出なくても、たいていのものが買えてしまう。

便利だ。確かに便利だけど……そういう便利さは、人が生きるという行為の本質ではない、という気もする。もっと不便で物が手に入らない場所でも、人は人として、あるがままに、のびのびと生きていける。ラダックで、アラスカで、僕はそう教わってきた、と思っている。