Tag: Ladakh

気持で撮る、気持で書く

ラダックの風息」の読者の方などから、時々、こんな質問をされることがある。

「どうやったら、こういう写真が撮れるんですか?」

僕自身には、「こういう写真」というのがどういう写真なのか、正直よくわからない。ただ、他の人から見ると、僕が撮ったラダックの写真から、何かしら特殊な印象を受けるのだという。同じような質問は、僕がラダックについて書いた文章でもよく訊かれる。こちらについても、具体的に何が違うのか、自分ではよくわからない。

写真も、文章も、とりあえず、それらを商品として売り物にできる最低限のスキルは、僕も一応、持ち合わせていると思っている(でなければ、プロを標榜する資格がない)。でも、ほかのプロのフォトグラファーやライターよりも飛び抜けて秀でた才能を持っている、とはまったく思っていない。世の中には、僕よりも才能に恵まれたフォトグラファーやライターが、星の数ほどいる。たとえば、そういった人たちがラダックを取材すれば、きっと素晴らしい写真や文章をものにするに違いない(実際、僕はもっと多くの人にラダックを取材してほしいと思っている)。

でも、そういった人たちの写真や文章は、たぶん、僕が手がけたラダックの写真や文章のようにはならない。どちらがいい悪いという問題ではなく、何かがそこはかとなく、しかしはっきりと違ったものになると思う。その違いが生じる原因は、何となくわかる気がする。

それは、気持。

たとえ才能はなくても、ラダックの自然や人々に対する気持の強さは、僕は、ほかの誰にも負けない。それだけは、自信を持って言い切れる。そのありったけの気持を込めて、写真を撮り、文章を書いてきた結果が、ほかの人の写真や文章との違いになっているのだと思う。

気持で撮る、気持で書く。そんな仕事に取り組めている今の自分は、幸せなのかもしれない。

単独者の「血」

この間、押し入れの中にあった本や雑誌を処分するために整理していたら、懐かしいものが出てきた。雑誌「Switch」1994年7月号、特集・星野道夫

当時、僕は「Switch」の編集部でアルバイトをしていて、この特集のために収録された、湯川豊さんによる星野道夫さんへのインタビューのテープ起こしを担当した。まだ大学にも在籍していた僕は、編集のイロハもろくに知らず、テープ起こしもほとんど初めてといっていいほどのペーペーだった。かなり長大なインタビューを分担して作業していたので、テープ起こしの内容は断片的にしか憶えていない。

それでも、湯川さんが星野さんと植村直己さんを比較して話をしていた時のくだりは、今でもはっきりと憶えている。植村さんは、生き物の影さえない大氷原の中で、テントを張ってたった一人でいる時、嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのだという。誰もいないはるか遠くへ、一人で行く。そのことが「嬉しくて嬉しくて仕方がない」のは、植村さんや星野さんに共通する単独者の「血」のようなものなのではないか、と湯川さんは話していた。

当時の僕には、星野さんや植村さんのそういう「血」の話は、あまりにも自分とかけ離れているように思えて、ちゃんとは理解できなかった。でも、ここ数年、ラダックで積み重ねてきた経験で、その「嬉しくて嬉しくて仕方がない」気持が、少しわかったような気がする。一応、二、三度は山の中で死にかけたし(苦笑)。

遠くへ、一人で。そうでなければ感じられない、自分の弱さ、ちっぽけさ。僕にも、ちょびっとはそういう「血」が流れているのだろうか。

高地トレーニング

ひさしぶりに、自転車で遠乗りすることにした。いつもの、野川公園〜野川〜二子玉川〜多摩川のコース。この間乗ったのは、桜が咲いていた頃だったから、およそ半年ぶりか。

空は曇りがちでいまいちパッとしなかったけど、暑くもなく、寒くもなく、風もなくて、自転車に乗るにはいい天気。多摩川の河川敷で、ものすごい数の人たちがバーベキューに興じている。多摩サイは自転車で混雑しているかな‥‥と思っていたのだが、恐れていたほどでもなく、ほっとした。

春先に同じコースを走った時には、終盤に多少足がバテたのだが、今回はまったくのノーダメージ。たぶん、夏に標高3500メートルのラダックでさんざん歩き回ってたから、それが高地トレーニングの効果として現れているのだろう。ヘモグロビンとか、下界に下りても90日間くらいは維持されるらしいし。

シャーッ、と無心に自転車を走らせるのは、ほんと、いい気分転換になる。これから始まる本の執筆の間にも、何度か気晴らしに乗ろうかと思う。

湿気にやられる

今日は朝から、本降りの雨。部屋に籠って、ラダックで取材したデータをパソコンに入力する作業をする。‥‥が、雨が運んできた湿気のせいだろうか。どうにもこうにも、身体がだるい。

考えてみれば無理もない。何もかもがカラカラに乾き切っているラダックでひと夏を過ごした後に、いきなりじっとり湿った天気の中に放り込まれたのだから、その落差に身体がついていけないのだろう。

まあ、ラダックの気候にも困った部分はある。あまりに乾燥しているせいで唇はすぐガサガサにひび割れてしまうし、爪はちょっとぶつけただけであっさり欠けてしまうし、肌の過剰な日焼けはどんな日焼け止めクリームでも防ぎきれない。冬は冬で、さらにものすごく大変だし。ラダックみたいなところで暮らすなんて想像できない、という人も少なからずいるに違いない。

僕自身、ラダックにいる間に「きついなあ」と思う時はある。でも、いざ日本に戻ってきてみると、やっぱりあの乾いた空気が、照りつける日射しが懐かしい。少なくとも、この湿気むんむんの場所よりは、なんとなくしっくりくる。

父について

2011年7月27日未明、父が逝った。71歳だった。

当時、父は母と一緒に、イタリア北部の山岳地帯、ドロミーティを巡るツアーに参加していた。山間部にある瀟洒なホテルの浴室で、父は突然、脳内出血を起こして倒れた。ヘリコプターでボルツァーノ市内の病院に緊急搬送されたが、すでに手の施しようもない状態で、30分後に息を引き取ったという。

父の死を報せる妹からのメールを、僕は取材の仕事で滞在中だったラダックのレーで受け取った。現地に残っている母に付き添うため、翌朝、僕はレーからデリー、そしてミラノに飛び、そこから四時間ほど高速道路を車で移動して、母がいるボルツァーノ市内のホテルに向かった。

車の中で僕は、子供の頃のある日の夜のことを思い出していた。その夜、僕たち家族は車で出かけて、少し遠くにある中華料理店に晩ごはんを食べに行ったのだ。店のことは何も憶えていないが、帰りの車で助手席に坐った時、運転席でシフトレバーを握る父の左手にぷっくり浮かんだ静脈を指でつついて遊んだことは、不思議によく憶えている。指先に父の手のぬくもりを感じながら、「もし、この温かい手を持つ人が自分の側からいなくなったら、どうすればいいんだろう?」と、不安にかられたことも。

翌朝、病院の遺体安置所で対面した父は、まるで日当りのいい場所で居眠りをしているような、綺麗で穏やかな顔をしていた。腹の上で組まれた父の手に、僕は触れた。温かかったはずのその手は、氷のように冷たく、固かった。

—–