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ものものしさ

昼、吉祥寺から井の頭線で渋谷へ。マメヒコでコーヒーを飲み(海外取材前で家のコーヒー豆を切らしてるからありがたい)、本屋やタワレコをひやかし、キーンの直営店でトレッキングシューズを二年ぶりに新調した。よく晴れた日で、風もなく、のんびり散歩するにはうってつけの冬の日だった。

ただ、今日の渋谷・原宿界隈は、いつになくものものしい雰囲気だった。街角の至るところに、プロテクターに身を固めた警察官が大勢待機していて、道端には警察車両がずらり。バリケード用の折り畳み式の柵が用意されている場所もあった。その時はなぜかよくわからなかったのだが、あとで調べると、今日はこの界隈で天皇制に反対する団体のデモがあり、それにまた反対する人たちが集まってきて、かなり険悪な雰囲気になっていたようだ。

誰かを不当に貶めたり迷惑をかけたりするのでなければ、どんな思想を持とうと、それは人それぞれなのかもしれない。でも、こんなうららかな天気の日に、あんなに大勢の警察官が出動しなければ抑えきれないような人と人とのぶつかりあい、傷つけあいが起こりかねない今の日本の雰囲気は、やっぱりどこかおかしいと思う。

たとえ自分自身が正しいと信じ切ってることでも、それを他の人に伝えるやり方までもが正しいかどうか、誰かを不用意に傷つけたりしないかどうか、立ち止まって考えてみるべきじゃないだろうか。大きな声を張り上げなくても、拳を振り上げなくても、伝えられることはちゃんとある。

命の軽さ

夕方、歩いて吉祥寺へ。まめ蔵でカレーを食べた後、無印良品でポリプロピレンの収納ケースと、小さめのパルプのケースを購入。部屋の中のものをいろいろ整理したかったので。

ケースを持って歩いて帰る距離を縮めたかったので、吉祥寺から三鷹までひと駅電車に乗ろうと思ったら、中央線も総武線も動いていない。すわ、また人身事故かと思ったら、強風で架線にビニールがひっかかったのを取り除くためだったらしい。ほっとした。

東京に住んでいて、きついなあと思うことの一つは、鉄道での人身事故の多さだ。そのほとんどはおそらく投身自殺なのだと思うが、もはや日常茶飯事といっていいほどの頻度で発生するので、ともすると、その瞬間に一人の人間の命が消えていったという事実に対して、自分の感覚が鈍くなってしまっているのではないか、とさえ思ってしまう。

二、三年ほど前だったと思うが、自分が乗っていた中央線の列車が、荻窪駅で人身事故を起こしたことがある。その時、電車はいつもより少しだけ唐突に駅に止まり、ドアはしばらく閉ざされたまま。やがて淡々とした調子で「この列車で人身事故が発生しました。しばらくお待ちください」というアナウンスが流れた。その瞬間、車内では何の声も上がることなく、ただただ、ぎゅうっと重い空気がたれこめた。10分ほど経って僕たちは、車内を移動して後方の車両から順次外に出て、総武線や丸ノ内線に乗り換えるように指示された。僕たちが人身事故の現場を目の当たりにする場面は一切なかった。今思うと、完全にマニュアルに沿った対応だった(それが悪いという意味ではなく)。

あの時、散った命が、どんな人のものだったのか、知るよしもない。大切な用事で急いでいた人にとっては「ふざけるな」と思える出来事だったかもしれない。でも、この東京で人身事故で電車が遅れるたび、ほぼ確実に一つの命が消えていっているという事実は、きちんと噛みしめなければ、と思う。それを思い出すたびに、暗鬱な思いに心を曇らせることになったとしても。

人の命は、いつから、こんなに軽く、あっけなくなってしまったのだろう。

踏み外しまくる人生

今までの自分の人生をふりかえって、日本の社会の価値観みたいなものに照らし合わせてみると、何というか、とにかく踏み外しまくってきた人生なんじゃないかなと思う。

大学では自主留年して、卒業するまで六年もかかっている。その後も、正社員として企業に就職することは一度もなく、バイト(肉体労働もやった)や契約社員の仕事を転々としては、ふらっと旅に出ていた。やがて、成り行きでフリーランスというわけのわからない立場になり、それでもそれなりに安定してきたと思ったら、全部放り出してインドの山奥に一年半も行ってしまった。今、受験勉強や就職活動にいそしんでる若い人たちから見れば、たぶん絶対に真似したくない、ちゃらんぽらんな人生だろう。

僕自身、その時その時は何の余裕もなくていっぱいいっぱいだったけれど、今思うと、そうして踏み外しまくってきたからこそ出会えた、かけがえのない体験もたくさんあった。そうした体験の一つひとつが、今の自分を形作ってくれたと感じている。安定しているように見えた道を踏み外してから初めて、本当の意味で自分自身の人生が始まったとさえ思っている。実際、結構いろいろ面白かったし(笑)。

受験に失敗したり、就職活動に行き詰ったり、その後の人生でつまずいたりしても、きっと大丈夫。踏み外した先には、必ず別の道が続いている。他人に迷惑をかけないことを心がけながら歩いていけば、そのうち何とかなると思う。たぶんね。

つまらなくなる街

午後、ぼうぼうに伸びた髪を切ってもらうため、三鷹の南口にある理髪店へ。

駅を抜けて階段を降り、細い道に入ると、左右に並ぶ店が、軒並み閉店してしまっている。このあたりに再開発で高層ビルが建てられるという話は、少し前から聞いてはいたが‥‥。昔ながらの喫茶店やごはん屋さんが、ひっそりと入口を閉じ、閉店のお知らせの貼り紙を貼っている。無念さのにじむその文面を見ていると、何だかやるせなくなる。

三鷹だけでなく、中央線沿線のあちこちで、似たような再開発が次々に行われていると聞く。再開発を十把ひとからげに悪いと決めつけるつもりは毛頭ないけれど、どこもかしこも、つるんときれいな外観のビルに、どこかで見たような小洒落たテナントが並んでいる街は‥‥つまらないんじゃないかな、やっぱり。少なくとも、個人的には。

本当の意味で、街を面白く、居心地よくするのは、大仰な都市開発とかではなく、一人ひとりの小さな営みなんじゃないかと、僕は思う。

節電って?

年の瀬ということもあって、三鷹でも、駅前や商店街にイルミネーションが灯される季節になった。僕は感受性の薄い人間なので、イルミネーションを見てもたいして何の感慨も湧かないのだが、そういえば、節電って、どうなったんだろう、などと思ってしまう。

震災が起こったのは、まだほんの三年前。あの頃、世間はとにかく節電、節電で、イルミネーションはもちろん、街灯や駅の構内の照明まで落とされていた。でも今は、そんなことなどすっかり忘れ去ってしまったかのように、むやみやたらにイルミネーションは灯され、そこらじゅうで湯水のように電気が消費されている。

日本のエネルギー事情がこの三年間でそんなに好転したとも思えないのだが、みんな、その辺はどう思っているのだろう。日常の中で電気の便利さに溺れているうちに、僕たちは将来、誤ってはいけない判断を誤ってしまうのではないか、という気がしてならない。

それで効果があるかどうかではなく、使わなくてもいい電気は使わないようにする、という気持を一人ひとりが持つことに意味があるのかな、と思う。