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「デーヴダース」

キネカ大森に、インド映画「デーヴダース」の最終上映を観に行った。少し前の新宿ピカデリーでの上映回に行きたかったのだが、終映が終電間際の設定になっていて、家族に迷惑をかけてしまうので、予定を変えた。同じ境遇の人が多かったのか、キネカ大森での最終上映は、満席になったらしい。

この作品、20世紀初頭にシャラトチャンドラ・チャテルジーが著した小説が原作で、さまざまな言語で翻訳・出版されたほか、映画化もこれまで20作品ほどなされてきたという。インド人ならほとんどの人が、これがどういう物語で、どのような結末を迎えるのかを知っている。そうした誰もが知る古典的名作を、サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督は、彼ならではの世界観と、緻密に計算し尽くされた映像美によって映画化した。主役のデーヴダースは、シャー・ルク・カーン。彼の幼馴染の恋人パーローは、アイシュワリヤー・ラーイ。失意のデーヴダースを支える娼婦チャンドラムキーは、マードゥリー・ディークシト。公開当時も、そしておそらくこれからも、これ以上のレベルのキャスティングは望めないだろう。

名家の息子に生まれながら、厳格な父親に対する葛藤を抱え、幼馴染との結ばれない恋に苦悩し、酒に溺れていくデーヴダース。想いに反して別の家に嫁ぎながらも、デーヴダースのことが忘れられないパーロー。自ら酒で身を滅ぼしていくデーヴダースのかたわらで、報われない愛情を注ぎ続けるチャンドラムキー。残酷なまでに美しい映像で彩られた物語は、破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいき、ほぼ何の救いも残さないまま、幕を下ろす。いや、それとも、何か希望はあったのだろうか。

「カクテル 友情のトライアングル」

今年も始まった、インディアンムービーウィーク2022。僕が最初に観に行ったのは、「カクテル 友情のトライアングル」。監督はホーミー・アダジャーニア。主演はサイフ・アリー・カーン、ディーピカー・パードゥコーン、ダイアナ・ペンティ。10年前に公開された作品だ。

執拗にお見合い結婚を勧める母親から逃れて、ロンドンに引っ越した、システムエンジニアのガウタム。毎夜のパーティー三昧の生活を送るフォトグラファーのヴェロニカ。夫と暮らすためにロンドンに来たら偽装結婚だと告げられ追い出されたミーラ。ふとしたきっかけから同じ部屋で暮らすようになった三人。完璧なバランスに思えた彼らの友情の日々は、やがて、少しずつ変化していき……。

欧州ロケ主体で撮影されたスタイリッシュなラブストーリーは、昔も今もボリウッド映画にたくさんあって、この作品もその系譜に連なるものだ。プリータムによる音楽は華やかだし、序盤のハイテンポでコミカルな展開は観客の期待を裏切らない。ただ、後半のシリアスな展開との落差が結構激しいのと、三人それぞれの内面の変遷を表現する描写がやや足りなくて、唐突に感じられるところもあった。

三人の中では、ディーピカーの演技が見事にハマっていて、圧倒的な存在感を放っていた。「オーム・シャンティ・オーム」でデビューした後、しばらくは演技面で辛口の批評を受けていたそうだが、この「カクテル」で一気にブレークスルーを果たしたという評価も、納得の出来である。企画当初は、ディーピカーがヴェロニカとミーラを一人二役で担当するアイデアもあったそうだ。それはそれで、見てみたかった気もする。

何だかんだで安心して楽しめる、今時のボリウッド作品。よきかな、よきかな。

予定の組み替え

午後、都心の出版社で打ち合わせ。制作中の本について、編集者さんと、あれこれ密談。

今作っている本については、このまま粛々と作業を進めていけば、初夏か晩夏かまだ定まっていないが、いずれにせよ、夏のうちには上梓できると思う。なので、これからしばらくはその作業に没頭するだけなのだが、僕自身には別の懸念事項がある。今年の夏の予定だ。

制作中の本のほかに、別の出版社と、ラダックについての本を作ることが決まっている。その本に必要な取材を今年の夏に実施して、秋以降に執筆に取りかかって、来年の前半くらいに完成できれば……という青写真を描いていた。

でも、最近のコロナ禍の再燃で、夏の海外渡航はすっかり不透明な状況になっている。不可能ではないかもしれないが、渡航のためにいろいろ無理をしなければならないかもしれず、しかも取材先の現地が平穏な状況に戻っている保証もない。正直、今年の夏の渡航は難しいかな、と思っている。

なので、その別の本に関しては、取材と執筆の順序を逆に組み替えようと考えている。先にできる範囲で執筆をしておいて、取材は来年の夏に回し、その成果を反映させて、来年のうちに完成させる、というやり方だ。内容的に先にある程度執筆できる本ではあるので、今はそれがベストな選択肢かなと思っている。

まあ、できる時に、できることを、粛々を進めていくしかないのかなと思う。

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ハワード・ノーマン『ノーザン・ライツ』読了。カナダの北極圏に暮らす少数民族の口承物語を取材していた著者が、自身の少年時代の経験を反映させながら書いた最初の小説作品。中盤から終盤にかけて結構な急展開の連続で、個人的にはそのチェンジオブペースにちょっと驚いてしまったのだが、序盤で描かれた辺境の村クイルの情景と、そこで暮らす人々一人ひとりの描写は本当に緻密で豊かで好ましくて、一冊丸ごとクイルが舞台でもよかったのに、とすら思ってしまった。主人公のノアには、いつかクイルに戻ってほしかった、かも。

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佐々木美佳『タゴール・ソングス』読了。十日ほど前、同書の刊行記念に催された、佐々木さんが監督したドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』上映会&トークイベントに参加して、会場で購入した。映画の字幕でも、この本でも、タゴールの遺した数々の歌を佐々木さんが自ら訳した歌詞が載っているのだが、その言葉選びの一つひとつがとても丁寧で、するっとタゴールの歌の響きに感情を重ねることができた。ある土地や人々に対して、予断を何も持たず、まっさらな気持ちでまっすぐに向き合うのは、ノンフィクションの基本であると同時にもっとも難しいことでもあるが、佐々木さんは、映画でも本でも、そのまっすぐな姿勢にぶれがない方だなあ、と感じた。誠実な映画だったし、誠実な本だと思う。

「グレート・インディアン・キッチン」

ココナッツを削り、すりつぶしてチャトニにする。鉄板で生地を丸く伸ばして、ドーサを焼く。かまどで薪を焚いて、米を炊く。オクラを刻む。インゲンを刻む。トマトを刻む。タマネギを刻む。バナナを揚げる。魚を揚げる。食卓の上の食べかすを拭い取る。皿を洗う。コップを洗う。鍋を洗う。

ジョー・ベービ監督のマラヤーラム語映画「グレート・インディアン・キッチン」では、冒頭から、家の台所での何気ないカットが、ひたひたと積み重ねられていく。ナレーションもBGMも何もないが、刻々と鬱積していくその短いカットの連鎖からは、監督のある強い意図を感じ取ることができる。

インド人社会の頑迷な家父長制と、理不尽なまでの男尊女卑。現代では時代錯誤にも思えるこうした慣習は、宗教との関係もあってか、いまだに根深く残り続けている。男性だけでなく、女性たち自身の中にも、こういった慣習に囚われてしまっている人は少なくないという。しかし、それは、人としてどうなのか。我々は、目を覚ますべきなのではないか。人が人として、当たり前に生活しながら、互いをいたわりあって生きていけるように。

インドだけではない。世界の他の国々にも、日本にも、こうした男尊女卑の慣習は、さまざまに形を変えて、根深く存在する。あまりにも根深すぎて、誰もが当たり前と受け止め、あきらめてしまっているような慣習が。でも、あきらめてはいけないのだと、この映画を観て、あらためて思った。

都会の雪

一昨日は、東京でも昼頃から雪になった。朝の時点での天気予報の予測を大きく超えて、五センチくらいは積もったそうだ。

昨日の朝は、街の道路のあちこちで、雪が凍ってアイスバーンと化していて、転倒する人が続出したらしい。僕も、いつもなら西荻の自宅から吉祥寺のコワーキングスペースまで歩いて往復してるのだが、昨日はさすがに電車にした。それでも、朝、家から駅までのほんの5分くらいの道のりでさえ、かなりひやひやしながら歩いた。

「昨日の雪の凍り具合を見て、本で読んだチャダルの話を思い出しました。こんな感じなのかなあって」と、今日ある人に言われたのだが、東京のような都会の雪や氷の方が、ラダックやザンスカールのそれよりも、ある意味危ないような気がする。どこでどう滑るか、予想がしづらいというか。転んだら、地面も周囲も硬くて怪我しそうなものだらけだし。

初めてチャダルの旅をして、レーに戻ってきたら、レーの街のあちこちがつるつるに凍っていて、坂道で転んで手のひらをすりむいたことを、今になって思い出した。現地では、そろそろチャダルを行き来できるようになっている時期だ。あっちは今、どんな感じなのだろう。