Tag: India

「Padmaavat」

1月に成田からデリーに向かうエアインディアの機内で最初に観た映画は「Padmaavat」。サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督、ディーピカー・パードゥコーンとランヴィール・シンという組み合わせの作品は、「銃弾の饗宴 ラームとリーラ」「バージーラーオ・マスターニー」に続いて3作目。13世紀から14世紀頃のラージャスターンのメーワール王国を舞台にして後世に書かれた、パドマーヴァティという伝説的な存在の王妃の物語を題材にしている。スリランカからメーワール王国に嫁ぐパドマーヴァティをディーピカー、彼女を娶るラージプート族の王ラタン・シンをシャーヒド・カプールが演じ、ランヴィールはメーワール王国を襲うハルジー王朝のスルターン、アラーウッディーン・ハルジーを怪演している。

「Padmaavat」では前の2作品にも増して、バンサーリー監督の映像美へのこだわりがとことん突き詰められている。隅から隅まで1ミリも隙のない、凄まじい完成度。そんな画面をじっと見ていると、視覚も聴覚も吸い取られて、脳天までジンジンと痺れてくるような感覚に陥る。ランヴィールのどす黒い狂気に満ちた演技にさえ、ある種の美しさを感じてしまうほど。ただ、インドではあまりにも有名な伝説が題材ということもあってか、それぞれの登場人物の存在感が現実味に欠けるというか、親近感を感じるには遠すぎる存在であるようにも思えた。それは前の2作品とも共通する点ではあるが。

この作品、2017年の暮れにインドで公開される予定だったのだが、公開前から「パドマーヴァティとアラーウッディーンが恋に落ちる内容なのでは?」といった根拠のない噂がいろいろ流れ、ラージプートの団体などから猛烈な反発があって、公開が2カ月ほど延期された。監督や主演のディーピカーに対する脅迫行為もあったという。結局、公開後に作品の内容が明らかになると、そうした反発が的外れなものだったことが証明されたのだが。インドという国では、時々、こういうわけのわからない理不尽なことが起こってしまう……。

ちなみに、少し前から交際していたディーピカーとランヴィールは、2018年の暮れにめでたく結婚。過去3作品の映像に負けないくらい、圧倒的に美しい二人の結婚式の写真が、InstagramやTwitterにたくさんアップされていた。映画の中で、アラーウッディーンはパドマーヴァティの姿をひと目見ることすら叶わなかったのだけれど、現実世界の二人は、幸せに添い遂げられて、よかった。

すったもんだの旅

昨日、2カ月ぶりにインドから日本に戻ってきた。

今回のインド滞在は、いつにも増して、いろいろ大変だった。前半の1カ月は、あらかじめ計画していた通りに事が運び(まあ、必要以上にエクストリームな日々ではあったけれど)、取材も順調に進み、自分なりに大切なテーマを見つけることができた。ところが、後半の1カ月は……撮影する予定だった行事が今年に限って1カ月ほど順延されたりしたのはまだいいとして、カシミールで起こったイスラーム過激派によるテロと、それをきっかけに勃発したインドとパキスタンの間の軍事衝突のせいで、すべての計画が狂ってしまった。まさか、何十年かぶりに互いの戦闘機が停戦ラインを越境して、空中戦をやらかし、その影響でインド北部にある空港が一時閉鎖されるとは、いったい誰が想像できただろう。

おかげで僕は、旅の後半で乗り継ぐ予定だったインド国内線の手配をキャンセルし、街から街へと、1回の移動で片道9、10時間もバスに乗らなければならなくなった。取材の忙しさだけでなく、そういう行程ですっかり体力を削られてしまった気がする。アムリトサルでは急に熱が出て具合が悪くなったりと、後半戦はあらゆることがうまくいかなかった。

最後の最後に、10日の夜にデリーを発つ予定だった帰国便のエアインディアが、搭乗1時間前になって急に14時間もディレイ。成田に到着したのは昨日の夜9時半。リムジンバスの運行も終わっていたので、厳寒期装備の詰まった重い荷物を担いで電車を乗り継ぎ、西荻窪の自宅に辿り着いたのは、日付が変わる1分前だった。

まあ、いろんな面でツキに見放されていたとはいえ、大きな怪我もせず、お金も何も無くしたりもせず、普通に日本に戻ってこれたというだけでも、少しはツキが残っていたのかもしれない。それにしても、絵に描いたようなすったもんだの旅だった。

———

今回の旅の最中に読んだ「羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季」、ものすごく面白かった。湖水地方で何世代にもわたって羊を飼って生計を立てている人々の暮らしぶりが、細やかな描写で活き活きと描かれている。自身も羊飼いである著者のこの処女作が、国内外で異例のベストセラーになったのも頷ける内容。人と自然との関わりや人生の持つ意味について、いろいろ考えさせられる。

布団の中から

真冬の朝は、目が覚めても、温かい布団の中から出るのが億劫だ。出発前日の今、僕はちょうどそんな気分でいる。

西荻窪に引っ越してきて、半年。街ではまだまだ未開拓の店も多いけれど、だいぶ土地勘もつかめてきた。新しい部屋での暮らしにも、いつのまにか、すっかり慣れた。細かいところを少しずつ整理したり、収納の仕方を変えたりして、だいぶ住みやすくなってきたと思う。居心地のいい部屋。ラジオからの音楽。自分でいれるコーヒー。相方と食べる夕食。何もかもが申し分なく、何の不満もない。

明日からはたぶん1カ月以上、風呂はもちろんお湯シャワーもまともに浴びることはできないだろうし、電気が使えるのも1日数時間だろうし、ネットもろくにつながらないだろう。緑の野菜とも当分オサラバだ。なんでわざわざ、僕は自ら好き好んで、そんな苦労をしにいくのだろう。温かい布団から出るのが嫌なように、ほんとに億劫だ。

でも、行かなければ。想像しただけで両手のひらがチリチリとしびれてくるような冒険の日々が、僕を待っている。良い写真を撮りたい。良い文章を書きたい。ただただ、そのために。

明日からしばらく、ブログの更新をお休みします。帰国は3月11日頃の予定です。では。

「ならず者たち」

2018年のインディアン・シネマ・ウイーク(ICW)で上映された作品の中で、急な仕事の都合で観逃していた「ならず者たち」。年末年始にキネカ大森で開催されたICWリターンズ2018で、ようやく観ることができた。この作品の劇中歌の動画をYouTubeでよく見ていたのも、かれこれ4、5年前。本編を日本語字幕で観ることができて、いろいろ感無量である。

1971年末の第三次印パ戦争の結果、東パキスタンがバングラデシュとして独立。その混乱のさなか、戦災孤児のビクラムとバラは貨物列車に忍び込み、バングラデシュからカルカッタに辿り着く。列車からの石炭泥棒で日銭を稼ぐようになった二人は、逞しく成長すると、カルカッタの闇商売を牛耳るマフィアの頂点にのし上がる。だが、二人をつけ狙う凄腕の警視サティヤジートと、美しきダンサーのナンディターの登場で、ビクラムとバラの固い友情に変化が訪れる……。

物語はシンプルでスピーディー、それでいながら思いがけない展開も仕込まれていて、あっという間の152分。能天気なハッピーエンドではないけれど、アクションもソング&ダンスもがっつり盛りだくさんで、観終えた後はものすごくスッキリ、というのもインドの娯楽大作ならではといったところ。主演のランヴィール・シンとアルジュン・カプールの演技も、濃くて、お茶目で、良い感じ。この作品の後から今に至るまでの二人の活躍ぶりにも納得がいく。

観終えた後にエレベーターで一緒になった観客の方が、「今日の昼間、社会派の重い映画を観てきたので、夜はこれを観てリフレッシュしようと思って。グンデー・セラピーですね」と話していて、思わず笑いそうになったのを必死でこらえた。グンデー・セラピー。確かに、いいかもしれない。

先入観のリセット

昼、外苑前で、取材を受ける。テーマは、インド映画。昨今、日本でも話題に上る機会が増えたインド映画を観ることをいろんな理由で躊躇している初心者に対して、インド映画の魅力やおすすめのポイントなどを紹介してほしい、という依頼だった(その相手が僕みたいな小者でよかったのだろうか、という懸念はあるが)。

この取材の相談を受けて、まず感じたのは、インドという国とその文化について予備知識のない人に、「インド映画」という非常にざっくりしたカテゴライズに基づく説明をすることの危うさだった。インド全土で年間で1000〜2000本も制作されているインド映画は、ジャンルも言語もあまりに多種多様で、とても十把一絡げに扱うことはできないからだ。

同時に思い浮かんだのは、未だにかなり多くの日本人が、インドやアジア諸国の人々と文化に対して、実情にそぐわない断片的な情報やイメージに基づいた先入観に囚われているのではないか、ということだった。たとえば、インド映画に対して敷居が高く感じている人のうち、実際にインドの映画作品を1本通して観た経験がない人は結構多い。妙な歌と踊りばかりなのではとか、えぐいバイオレンスシーンばかりなのではとか、たいしたクオリティではないのでは、とかいう思い込みばかりが先走っている。日本人のそうした先入観には、ともすると、うっすらとした上から目線の見方がブレンドされてしまいがちだ。

だから、先入観の抜けない初心者に対してインド映画をすすめるなら、まずは「インド映画」という括りを取っ払って考えてもらうようにした方がいいのだろう。「きっと、うまくいく」など評価の定まっているいくつかの映画を、個々の作品としておすすめしてみる。それで気に入ってもらえたら、あとはその人の好みに応じてアンテナを広げてもらえばいいし、そうでなければその人の好みではなかったというだけのことだと思う。

もっと根本的に、異国とその文化に対してズレている先入観をリセットするには、日本人である自身の価値観は絶対的なものでも何でもなく、世界の中で無数にある価値観の一つに過ぎないということを自覚するしかないのだろう。価値観とは国や地域や宗教や文化、人によって相対的なもので、それぞれに理があるのだと。その事実を骨身に沁みて自覚して自分のものとするには、やっぱり、旅に出るのが一番手っ取り早いのだろうと思う。