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松尾 純 写真展「クゼゥゲ・クシュ」ギャラリートーク


以前「撮り・旅! 地球を撮り歩く旅人たち」にもご協力いただいた広島在住の写真家、松尾純さんの写真展「クゼゥゲ・クシュ」が、銀座と大阪のニコンサロンで開催されます。銀座ニコンサロンでは2018年6月20(水)から26日(火)まで、大阪ニコンサロンでは7月19日(木)から25日(水)まで。いずれも日曜は休館日です。

銀座での展示期間中、6月23日(土)14時から、松尾さんご自身が作品について話をするギャラリートークが開催されます。その司会を、僕が担当させていただくことになりました。予約不要、参加費無料でご観覧いただけますので、よかったらぜひお越しください。

「エモい」について

この間、僕のタイ写真展「Thailand 6 P.M.」を見てくれた年下の知人から、「あの写真は……エモいですね!」という褒め言葉をもらった。自分の写真を「エモい」と言ってもらったのは初めてだったのだが、そもそも「エモい」という言い回しにはどういう意味が込められているのか。ちょっと検索してみると、面白いことがわかった。

もともとは、音楽のエモーショナル・ハードコアからきている言葉だそうで、感情的でメロディアスなさまを「エモい」と形容していたのだとか。そこから少し間が空いて、2016年頃から「なんかうまく説明できないけど、ぐっときた」というような意味合いで「エモい」という言い方が世間でよく使われるようになったらしい。

僕自身は、自分の写真や文章が「エモい」のかどうかはわからないし(撮り手や書き手本人はたいていそうだと思う)、何をどうすれば「エモい」作品を生み出せるのかもわからない。ただ、「うまく説明できないけど、ぐっとくる」部分をどこかで意識しておくのは、すごく大事だと思う。ロジックや計算はプロとして常に意識しておくべきことだけど、「エモい」と思わせる要素の源は、どうやらその計算枠からちょこっとはみ出した部分にあるように思うのだ。

計算し尽くされた構図や色彩、すらすらと読める流麗な文章。そこから、ちょこっと、はみ出してみる。そういうチャレンジをしていければ、と思う。

本は人を繋ぐ

昨日は、昼の間に書店回りをし、午後は板橋方面で取材。その後、夕方から渋谷にある旅行会社さんの事務所で、打ち合わせという名の飲み会。餃子の達人と厚焼き卵の達人がいらしたおかげで、うまい料理とうまい酒を、たらふくごちそうになってしまった。参加してくださったみなさんもとても楽しそうで、何よりだった。

しかし昨日の集まりは、何だか、とても不思議な気分にさせられた。もし、僕が過去に作ってきた何冊かの本の仕事がなければ、あの場所にいた人たちは、互いに出会う接点もまったくないまま、今に至っていたかもしれないのだ。

自分が引き合わせたなどと傲慢なことを言うつもりは毛頭ない。ただ、その時その時の自分のベストを尽くして良い本を作ろう、ともがき続け、ささやかながら世に送り出してきた本たちが、結果的にある種のかすがいとなって、今もいろんな人たちを繋いでくれているのかもしれない、とは思う。

本は、人と人とを繋いでくれる。

寄り添う写真

昼、リトスタへ。写真展「Thailand 6 P.M.」に合わせて販売してもらうため、「ラダックの風息[新装版]」と「ラダック ザンスカール スピティ[増補改訂版]」を箱詰めして、家から両手で抱えて搬入。ちょうどランチの時間が始まったので、いわしの南蛮漬け定食とコーヒーをいただいて、本を読みつつ、しばし在廊。

地元の人や、この界隈でお勤めの人らしいお客さんが、30人弱ほどご来店。そこはかとなく耳をそばだてていると、「あら、写真が変わったわね! どこかしら?」「タイだって」「そういえば前にベトナムでさあ……」「誰それさんとカンボジアに行った時はね……」といった会話が、あちこちから聞こえてきた。何だか嬉しかった。今回の写真展は、ごはんを食べながらゆったりした気分で写真を眺めて、それぞれの旅の思い出話とかを楽しんでもらえたらなあ……というイメージで考えた企画だったからだ。

見る者を圧倒するのではなく、何気なく、寄り添うような写真。そういう写真も、あっていいと思う。

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アントニオ・タブッキ著、須賀敦子訳「島とクジラと女をめぐる断片」読了。小さくて悲しくて美しい「断片集」。個人的には「インド夜想曲」よりもこっちの方が好きだ。最後のクジラのひとことが、くっと胸に刺さった。僕もアラスカで、クジラにああ思われていたのかもしれない。

どうということのなさ

今週から始まった写真展「Thailand 6 P.M.」。水曜のオープニングの時にも、来場者の方々からいろんな感想をいただいたのだが、中でも「これ、いいですね」と言ってくれる方が多かったのは、この写真だった。

これは、去年チェンマイで撮ったもの。特に有名な場所にある石像とかではなく、つぶれて閉店してしまったらしいスパかエステか何か、その系統のお洒落系の店だった場所の軒先に、ぽいっと打ち棄てられていたものだ。たまたまその場所を通りがかった時、暮れていく太陽の柔らかな光がスポットのように石像の横顔に当たっていたのを、カメラで何枚か撮った。今はもう、あの場所にこの石像はないかもしれない。

どうということのない写真といえば、その通りだと思う。でも僕は、その「どうということのなさ」に、なぜか惹かれる。ささやかな、どうということのなさに感じる、いとおしさ。いとおしいものは、僕たちの身の回りに、たくさんある。