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気前のいい理由

終日、部屋で仕事。夕方、近所のココイチまで行って晩飯を食べていると、背後のカウンター席に、小学校高学年くらいの男の子と、そのお父さんらしき人が座った。お父さんの声が結構大きいので、いろいろ漏れ聞こえてくる。

「さあ、どれにする? ……これか? 他に何をつける? 何がほしい? 飲み物は?」

普通の夕食にしては、やけに気前がいいのだ。カレーはトッピングもたっぷりつけて、サラダにポテトに、飲み物も。そのお父さんの妙に弾んだ調子の声を聞きながら、もやもやといろいろ想像してしまった。

・単純にいつもとても気前のいい、懐にも余裕のあるお父さんである。
・お父さんにすごくうれしいことがあった(宝くじに当たった、大きな目標を達成した)ので気前がいい。
・息子くんがすごくがんばった(成績が上がった、試合に勝った、何か賞を取った)ので気前がいい。
・逆に息子くんが落ち込むこと(試合か何かに負けたとか)があったので、励まそうとしている。
・お父さんが息子くんに対して何か負い目を感じるところがあって、それを埋めようとしている。

……本当の理由は知る由もないけれど、そんなお父さんと息子くんにも、一人でカキフライカレーを食べてる僕にも、時間は同じように巡っていく。2015年も、そろそろ終わりか。

奥華子「プリズム」

prism奥華子がデビュー10周年の節目にリリースした8枚目のアルバム「プリズム」。無色に見える太陽の光も、プリズムを通せば、七色に分かれて見えることに気づく。日々の暮らしの中で、あるいは自分自身の心の中で、さまざまなことに「気づく」のがこのアルバムのテーマかもしれない、と彼女は以前ラジオで語っていた。

確かにこのアルバムの中では、いろんな「気づき」が歌われている。思い出の中にいる人への気持ち。いつも支えてくれていた家族のぬくもり。身近すぎて気づかずにいた大切な人の存在。何気ないけれど自分にとってかけがえのないもの。気づくことで大切にしていけるものもあれば、気づいてしまったがために傷つくことや、取り返しのつかない後悔に苛まれることもある。そういったさまざまな場面での「気づき」を選び取り、シンプルな言葉で詞に置き換えていく彼女のまなざしの確かさには、毎度のことながら唸らされる。

曲の方も、いい意味ですっぱり開き直ったというか、自分自身にとても素直に向き合って、作りたい曲を作ったんだろうなという印象。彼女の代名詞の一つでもある弾き語りの曲は、意外なことに今回は一曲しかないのだが、アレンジのトーンは全体的にとても安定していて、特にストリングスの加わった曲の繊細なアレンジは、彼女の新しい一面を感じさせる。

12月23日には、昭和女子大の人見記念講堂で開催されるライブに、ひさしぶりに足を運ぶ。このアルバムに収められたさまざまな「気づき」の曲たちがどんな風に歌われるのか、楽しみだ。

離れていても

昨日の夜は、所用で上京していたティクセの裕子さんと、新宿でお会いした。ひさしぶりにアカシアに行って、ビーフシチューを食べた。

裕子さんは春から夏にかけての半年をラダックで、残り半年を日本で過ごす。夏は自身の旅行会社などの仕事をし、冬は日本で介護やセラピストの仕事をしている。ご主人のツェワンさんは、ラダックで旅行会社やタイル製造会社の仕事をしている。一人娘のミラちゃんは、ヒマーチャル・プラデーシュ州にある寄宿学校で暮らしながら勉強している。それぞれが自ら望んで、お互い納得して、その選択肢を選んでいる。

三人とも離れ離れに暮らしている時間がかなり長いと思うのだが、こんなに深い愛情で結びついている家族は、日本でもそんなに多くないのではないかと、僕は思う。人と人の心をつなぎとめるものには、距離など関係なく、いろんな形があるのだ。

ツェワンさんやミラちゃんの話をしながら笑う裕子さんは、本当に嬉しそうだった。これからも三人、仲良くお元気で。

あの日、あの場所

lampang
ここ数日、先月のタイ取材で撮ってきた写真のセレクト作業に、黙々と取り組んでいる。今回の写真の用途はガイドブックだから、グラビアページの構成に合わせて、内容の説明に必要なものや、わかりやすいキャッチーな絵柄のものを選んでいく。だから、写真としてはいい出来でも、用途にそぐわないので選ばれない写真も出てくる。

昨日のセレクト作業の中でも、本当に何気ないスナップショットで、場所や内容的にもガイドブックへの掲載用にはたぶん選ばれない一枚に出会った。タイ北部の小さな町、ラムパーン。週末のナイトマーケットが始まる少し前、西の地平線から射す光の中を、母親と三人の子供たちが歩いている。ほとんど何も考えず、反射的にシャッターボタンを押した。地味な写真かもしれない。でも、少なくとも僕にとっては、今見返すと、胸のあたりにじんわりとしたものがこみあげる、いろんな思いをめぐらせたくなる写真だった。

あの日、あの場所に、彼らがいて、僕がいた。

「Khoobsurat」

khoobsurat先日の南アフリカ取材、東京から香港に向かう飛行機の機内では、例によってインド映画を観た。だって、これから先日本で公開されるかどうかも定かでない(むしろ確率は低い)インド映画が、英語や日本語の字幕付きで観られるのだもの。使える機会は最大限利用しなければ‥‥。今回観たのは「Khoobsurat」。昨年、ディズニーが制作したインド映画だ。

インドのプロクリケットチームでトレーナーを務める理学療法士のミリーは、車椅子生活を送っているラージャスターンの貴族シェーカルの脚を治療するため、彼とその家族が暮らす邸宅に住み込みで働くことになった。しかし、シェーカルは自身のリハビリにまったく興味を示さず、妻のニルマラーは息の詰まるような厳格さで邸宅内を管理。息子のヴィクラムはビジネスのことしか頭になく、娘のディヴィヤは密かな夢を胸の奥に隠したまま。そんな中に飛び込んだ破天荒であけっぴろげなミリーの行動が、少しずつ彼らの心を動かしていく‥‥。

ディズニーの名を冠するにふさわしい、ロマンチックですんなりわかりやすいストーリー。主演のソーナム・カプールにとって、ミリーは彼女の美貌と身体のしなやかさを最大限に活かせるハマり役だと思うし、ヴィクラム役のファワード・アフザル・カーンの風格漂う物腰も見事にハマっている。物語の展開はお約束通りと言えばそれまでだけど、こういう映画は、そのまま素直に観て楽しめばいいと思うのだ。僕自身も、観ていて単純に面白かった。

この作品、日本で一般公開しても、ちゃんと受け入れてもらえるのではと思うのだが。ディズニーだし。ぜひご一考を。