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どちらの気持も

雨粒が落ちてくるのは見えないのに、歩いてると服がじっとり湿ってくるような、そんな天気の日。

午後、南大沢で取材。相手の方に、「ライターという仕事は大変でしょう? 実はうちの息子も、フリーライターをやっているんですよ」と言われる。どんなジャンルのお仕事を、と聞くと、机の上にあった、音楽やサブカル系のムックを見せてくれた。各ページに散らばる小さな記事に、一つひとつ、丁寧に付箋が貼ってあった。

「でもね、この間、身体を壊して、入院してしまったんですよ」

聞くと、週刊誌の編集部から無茶なスケジュールでの仕事を立て続けに依頼されたり、悪質なクライアントに原稿料を踏み倒されたり、あちこち振り回されているうちに体調を崩してしまったのだそうだ。

「ライターの仕事はやめた方がいいんじゃないか、とも言ったんですが、聞いてくれなくてね‥‥」

そうですね、とも、もう少し見守ってあげてください、とも、僕は言えなかった。何者かになろうとして、必死にあがいている駆け出しのライター。息子の書いた記事に付箋を貼りながらも、行末を案じている父親。どちらの気持も、僕には痛いほどわかる。

たぶん僕は、他の人よりほんの少しだけ運がよかったから、今の仕事をかろうじて続けられているのだと思う。

野菜の恵み

終日、部屋で仕事。「撮り・旅!」の色校正の修正指示の取りまとめと、一昨日の取材の原稿執筆。夕方までに、どうにかメドがつく。

午後、実家から荷物が届いた。畑で穫れた夏野菜が詰まっている。太陽の光をめいっぱい浴びて育った野菜たちは、手に取ると何だか福々としていて、これでうまくないわけがない、と思えてしまう。夕食にはさっそく、ナスとズッキーニとピーマンを使ったラタトゥイユと、刻んでゆでたモロヘイヤと納豆の和え物を作った。熱々のラタトゥイユを頬張っていると、じわっ、と汗が出てくる。

以前、大学の取材の仕事で聞いた話だが、植物が行っている光合成の仕組みをすべて人工的に再現することは、あまりにも複雑すぎて無理だろうと考えられているそうだ。今の人類の叡智を結集しても、その辺に生えてる草一本と同じ仕組みさえ再現できないのだという。

そう考えると、野菜ってのはすごい恵みなんだな、と思う。ありがたくいただきます。

「マダム・イン・ニューヨーク」

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昨日はシネスイッチ銀座で公開初日を迎えた「マダム・イン・ニューヨーク」を観に行った。あいにくの雨にもかかわらず、午後半ばからの回はほぼ満席。上映中は笑いさざめく声と涙ぐむ気配が広がり、終了後には拍手も涌き起こった。

主人公のシャシは、インドの良妻賢母を絵に描いたような、穏やかで賢く、美しい女性。ただ彼女には、義母を除く家族の中で一人だけ英語が苦手というコンプレックスがある。家庭を守るための彼女の日々の努力にも関わらず、夫からはことあるごとに軽く扱われたり、娘からも傷つく言葉を浴びせられたりして、密かに悩み続けていた。

そんなある日、ニューヨークに暮らす妹のマヌから姪の結婚式の準備を手伝ってほしいと頼まれたシャシは、家族よりも一足先に、五週間の予定で単身ニューヨークに旅立つことになる。初めての異国の地でおっかなびっくりのシャシは、案の定、英語ができないことでひどく打ちひしがれた思いを味わうはめに。そんな彼女の目に飛び込んできたのは、バスの車体に貼られた「四週間で英語が話せる」という英会話教室の広告だった‥‥。

女性の尊厳と自立とか、家族との関係とか、この映画が発しているメッセージはいくつもあるけれど、とりわけ強く印象に残ったのは、「言葉」というテーマだった。インドという国では、英国に占領されていた頃の名残で、英語は準公用語として比較的よく通じる。映画やテレビを見ていると、びっくりするくらいヒンディー語と英語がちゃんぽんで使われていたりする。英語を使うとちょっとカッコイイ、今風でイケてるみたいなイメージも、たぶんあの国の中ではあるのだろう。でもこの「マダム・イン・ニューヨーク」では、英語を流暢に話せる人たちすべてが礼賛されているわけではなく、むしろチクッと刺すような描写もある。「英語が話せるかどうかで人としての価値が決まるものなの?」と。

言葉は、人と人とが思いを伝え合うために欠かせない手段だが、言葉が何の問題もなく通じ合うからといって、心も通じ合っているとはかぎらない。英会話教室に集まった生徒たちは、国も人種も母国語もバラバラで、英語も初めはおぼつかないけれど、心は不思議なくらい通い合い、かけがえのない絆を育んでいく。時には感情に任せて相手にわからない言葉で語りかけてさえ、伝わっていく思いもある。言葉はあくまで手段の一つでしかなくて、大切なのは、思いをどうにかして伝えようとすることなのだと。

小さな勇気を積み重ねれば、人は自分を変えられる。自分の人生を取り戻すことができる。観終わった後、素直にそう思わせてくれる、清々しい風が吹き抜けるような作品だった。

父の日に

六月の第三日曜日は、父の日なのだという。

僕には、父の日に父の日らしいことをしてあげたという記憶がほとんどない。実家の家族は割とドライで、何かの日に合わせて何かをやるということはあまりしない方だった。父の日に至っては、僕がすっかり忘れてるのはもちろん、父もたぶん僕に対しては何も気にしてなかったと思う。

でも、ここ一、二週間、街を歩いていて「父の日ギフト」という貼り紙やポップを店先で見かけたりするたびに、胸のあたりがちくちくと痛かった。もう、何かをしてあげようにも、してあげる人はとっくにいなくなっているのだから。

世間に流されてようが何だろうが、もうちょっと、何かすればよかったのかもしれない。小振りな焼酎の一本でも送ってあげるとか。それで何か変わったとも思えないけど、今は後悔というより、もう何かしようにも何もできないという、うつろな気持しかない。毎年、この時期になるとそう感じる。

しようと思えば何かしてあげられる人が身近にいる人は、してあげた方がいい。できるうちに。

今は、そんな風に父のことをぼんやり思いながら、一人でビールを飲んでいる。

去り行く人

午後、八丁堀で取材。今日は春の嵐が来ると天気予報に脅されていたが、取材がスムーズに終わったこともあって、行きも帰りもほとんど濡れずにすんだ。これを書いている今、窓には雨粒がひっきりなしに打ちつけている。

取材に行く電車の中で、友人のご家族の訃報を知った。僕自身は数回お見かけしたことがある程度なのだが、去り行く人の報せは、何ともやりきれない。それが、どんな人のもとにも等しく訪れるものであったとしても。

僕たちにできるのは、これからの日々の中で、自分にできる何かを、一つひとつ、丁寧に積み上げていくこと。そうして生きていけること自体の有難さを、あらためて感じておかねばと思う。