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ファクスに思う

近頃、仕事でファクスを使うことが、めっきり減った。

十年ほど前、フリーランスの編集者・ライターとして仕事を始めた頃、ファクスはなくてはならない機材だった。何しろ、毎月数十ページ分の雑誌記事を担当していたから、編集部やDTPスタッフとのゲラのやりとりだけで、えらい枚数を費やしていたのだ。ADF(自動給紙)機能は必須。一枚ずつ手差しなんてやってられない(笑)。

ところが、ラダックでの長期取材を終え、日本で再び編集の仕事をするようになってからは、ほとんどファクスを使わなくなった。書籍の仕事がメインになったからか、ファクスで送るには膨大すぎるゲラは紙に出力したものを宅配便で受け取るようになり、細かいやりとりはPDFやスキャン画像をメールで送受信するようになった。周囲でも、ファクスを仕事で頻繁に使ってるという話はとんと聞かない。時代は変わったなあ。

そんなわけで、ファクス機能付きの複合機はもういらないんじゃないかとは思うのだが、ごくたま〜に、いきなり資料をファクスで送ってくるクライアントもなくはないので、一応、まだ持っておいた方がいいのかもしれない。悩まし。

出版社と本の作り手

昨年暮れから編集作業を担当し、先月下旬に校了した書籍の見本誌が、今朝になって届いた。

通常、印刷所から出版社に見本誌が届いたら、版元の編集者は、著者はもちろん、制作に携わったスタッフや、取材に協力してくれた方々にそれを送付する。関係者に感謝の気持を伝えるという意味もあるが、万一何か問題が残っていたら、発売前に何かしらの手を打って(訂正紙を挟むなどして)対応するための最終チェックの役割も見本誌にはある。

この本の見本誌は、一月末日には出版社に届いていた。しかし版元の編集者は、僕のほか、デザイナーの事務所やDTPスタッフにも見本誌を送るのをうっかり忘れていたのだという。結局、制作スタッフによる見本誌の最終チェックを完全にすっ飛ばす形で、この本は世に出ることになってしまった。

出版社は、見本誌を制作スタッフに送るのは忘れていたのだが、制作とは何の関わりもない、外部のIT企業のお偉いさんや、好意的な書評をブログで書いてくれそうなクリエイターには、すでに積極的に見本誌をばらまいていた。そういう形で本の宣伝に力を入れるのは別に構わない。でも、その一方で、クリスマス連休も毎日休まず出社して作業してくれたデザイナーや、インフルエンザで熱を出しながらも作業してくれたDTPスタッフのことを、そんなに簡単に忘れてしまったのか‥‥と思うと、何だか虚しくなってしまう。

この出版社には、去年も別の編集者からかなりの迷惑を被った。仕事や会社の選り好みはあまりしたくないが、正直、もう自ら進んで関わろうという気にはなれない。残念ながら。

いい本だけど、売れない?

自分自身が作ってきた本も含めて、の話なのだけれど。

同業者と話をしていると、「あれ、いい本だと思うんだけど、売れないんだよねえ」といった話を時々聞く。僕自身、そんなことを口にした経験は何度もある。でも、あらためて考えてみると、それってどうなんだろう? と思わなくもない。「いい本だけど、売れない」のは、読者がそのよさを理解できないからではなく、企画から発売までの段階で、作り手が何かを読み違えたからではないだろうか?

「いい本で、しかも売れる」ための答えがはっきりわかっていれば、誰も何の苦労もしないのだが、もちろんそんなことはなく、結局、売れるかどうかは出してみなければわからない。ただ、ある程度経験のある編集者が関われば、その本の企画なら、全国的におよそどのくらい読者になりうる人がいて、どのくらいの数を刷ればその人たちに届くのか、いくらかは読めるようになる。たとえたいした冊数でなくても、そうして想定した数の読者にしっかりと届くように本を販売できたのであれば、僕はその本は役割を果たしたと思うし、「ちゃんと売れた、いい本」だと思う。ただ、そこからさらに読者が広がるかどうかは、ほんと、神のみぞ知る、だ(苦笑)。

付け加えるなら、個人的に「いい本」の条件だと感じているのは、「耐久力」だと思う。刊行から年月を経れば、細かい掲載情報が古びていくのは当然なのだが、それでも本質的な部分が劣化することのない本は、確かにある。ひっそりと、でも確実に読み継がれていく本。僕も、そういう本を作ることを目指したいと思う。

好きなことをして食べていく?

この間の、西村さんと夏葉社の島田さんの公開授業で出ていた話題の一つについて。

授業を受けていた学生さんが、「自分がやりたいこと、好きなことに取り組んでいきたいけれど、それで食べていけるのかどうか不安になります。どうすればいいのでしょうか」という質問をした。確かに、美大の学生さんともなると、自分の作品づくりを生活の糧にできるかどうかというのは、重要な課題なのだろう。

それに対して西村さんは、「たとえばバイオリンを学んだ人が、普段は他の仕事をしながら、週に一度仲間内で集まって演奏をして、何年かに一度、どこかでコンサートを開く。そういう取り組み方もある。好きなことをするなら絶対にそれで食べていかなければダメだ、というわけではないと思う」と指摘した。確かに、それはその通りだ。

好きなことをすることと、それで食べていくということは、必ずしも結びつける必要はない。絵画や音楽、文学などの分野で素晴らしい才能を持ち、世間的にもきちんと評価されている人が、普段はまったく別のことをして生計を立てている例はいくらでもある。それで食べていけないからといって、好きなことへの取り組みをすべてあきらめてしまうのはもったいない。

ただ、意地でも自分の好きなことをして食べていく、という覚悟で取り組んでいる人には、退路を断った人ならではの気迫と集中力が宿るのも確かだと思う。勝ち負けの問題ではないけれど、他の仕事で生計を立てながら好きなことへの取り組みを続けるのは難しい面もある。結局大事なのは、それで食べていけるかどうかではなく、自分が好きなこと、やりたいと思ったことを、とことん最後までやりきれる覚悟を持てるかどうか、なのだろう。

僕自身、好きなことをして食べていけている状態と言えるかどうか、微妙なところだと思う。ライターや編集者としての仕事全般では、まあ、かつかつ。自分が好きな旅にまつわる仕事に限ると、まだまだ。でも、自分がやってみたいこと、好きなことに取り組むには、今のフリーランスの状況に身を置いておくのが一番やりやすいし、実現の可能性が高い。だから僕は、これからもやせ我慢を続ける。

好きなことをして、それで食べていく。楽なわけないよね。

本づくりという仕事

昨日の夜は、上野毛にある多摩美術大学へ行き、西村佳哲さんのプレデザインをテーマにした一般公開授業を聴講してきた。この日のゲストは、夏葉社の島田潤一郎さん。このお二人の組み合わせなら、必ず面白いお話が聞けると思っていたのだが、予想に違わず、とても面白かった。

吉祥寺で、たった一人で出版社を営んでいる島田さん。世の中に足りないと自分が思える本、三十年後も書店に並んでいるような、長く読み継がれていく本を作りたい、と話していた。本は、必ずしもわかりやすいものではない。でも、単なる情報の容れ物とは違う、読んだ時の記憶や感情が宿ったものとして存在し続けることによって、生活に豊かさをもたらしてくれる、と。そういう話からは、島田さんの本に対する愛情と畏敬の念がひしひしと伝わってきた。

本づくりという仕事では、作家や装丁家、書店員との間でのコミュニケーションがすべての根幹だと島田さんは考えている。相手の仕事を尊敬していると誠心誠意伝えて、できれば自分のことも好きになってもらって、相思相愛になる。そうして自分が好きな人と一緒に仕事をするのが、一番幸せなのではないか、と。本の企画を考える時は、人が見えないとわからなくなる。実際に存在する具体的な読者を二百人くらいはイメージできるけど、何万人もは無理。あと、こういう仕事ではゼロから始める感覚が重要で、前と同じやり方でうまくいくと予測できてしまう仕事は面白くないし、やりたくない、とも話されていた。

なるほど、と気付かされることもあり、あるある、と共感できることもたくさんあった。肩肘張らない自然体で、まごころの籠った本づくりをしている方の話を聞いて、いい波動を受け取れた気がする。何だか元気が出てきた。