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100人中、何人?

僕は基本的にアマノジャクなので、世の中で100人中100人が「いい!」と言ってるものには、怪しんで近寄ろうとしないところがある。百万部のベストセラーの本とか、大ヒット街道爆進中の映画とか、ヘビロテされまくりの歌とか、長い行列のできるパンケーキ屋とか。それは感覚的にひねくれてるところがあるからだろうな、と自覚している。

文章なり写真なりで本を作る側の立場からすると、ビジネスの視点だけで考えれば、100人中100人が「いい!」と喜んで買ってくれるような本づくりを目指すべきなのかもしれない。でも、そうしたアプローチはほぼ間違いなく、うまくいかない。何を伝えたいのかがぼやけて、結局、面白くも何ともないものになってしまう。少なくとも、ひねくれ者の僕は、そういう本を面白いとは思わない。

少なくとも本づくりに関しては、作り手自身が面白いと思えるものをぶれずに目指すのが一番いいと思う。それが、100人中1人にしか届かなかったとしても、その1人の心をほんの少しでも動かすことができたなら、その本には、この世界に存在すべき価値がある。

丑三つ時の妄想

新しいアイデアというのは、ふとしたはずみで出てくるものだが、僕の場合、どうもそのタイミングが丑三つ時に集中している。

そろそろ寝るかとパソコンを閉じ、歯を磨いて、布団をめくって中に潜り込み、スヤァ‥‥となりかけたとたん、文字通り、ぽん、と音を立てるようにしてアイデアが浮かんでくるのだ。それは、本や雑誌記事のテーマだったり、タイトルやキャッチコピーの具体的な文言だったり、その時々によっていろいろなのだが。

薄れゆく意識の中で浮かんできたこのアイデア、翌朝もまあ覚えてるだろうとそのまま寝入ってしまうと、僕はまず間違いなく忘れてしまう(苦笑)。なので、睡魔に抗うようにしてむくりと起き上がり、暗闇の中を居間のデスクまで歩いていって、ブロックメモにそのアイデアを殴り書き。それで安心して寝床に戻る。

で、翌朝、あらためてそのメモを見返してみると、なんでこんなのが珠玉のアイデアに思えたんだろう、という場合がほとんど(苦笑)。でも、昨日の丑三つ時に思いついたアイデアは、今朝になって見返しても、そんなに悪くない。うまく形にできるといいな。こんな風にして僕は本を作っている。

がむしゃらに

この間、とある会社から、まったく予想もしてなかったような打診を受けた。最終的にそれが仕事という形になるかどうかはわからない、というか、そうなる確率はけっして高くないのだが、少なくとも、そういう打診をもらえたこと自体、僕にとっては一種の励みになるものだった。

で、それをきっかけに、あらためて思ったのだが‥‥やっぱり、もっと撮らないと、もっと書かないと、ダメだなと。去年の秋にアラスカに行った時、自分の中で何となくリスタートを切れたような気もしていたのだが、それにしては、今はまだ、写真も、文章も、全然足りてない。もっといろんな土地にばんばん出かけていって、目に映るもの、聞こえてくるもの、心に刺さるもの、かたっぱしから撮って、書いて‥‥それを形にできるかどうかは、場合によっては後回しでも構わない。

いい意味で、もっと後先考えず、がむしゃらに。今だからできること、今しかできないことを。

モチベーションを上げる方法

今日、仕事で書いていた原稿の中に出てきた話題なのだけれど。

仕事や勉強に対するやる気、モチベーションを上げるには、二つの要因があるのだという。一つは、お金や名誉、社会的地位といった外発的報酬。もう一つは、やりがいや楽しさ、達成感といった内発的報酬。興味深いのは、外発的報酬に必要以上に依存するようになると、かえってモチベーションが下がってしまうという研究結果があるのだ。

つまり、ギャラはいいけど内容はつまらないと感じている仕事とか、世間的にはすごいと思われてるけど自分では納得できない仕事は、「ギャラがいいから」「世間的に注目されてるから」というだけではモチベーションが維持できなくなるのだ。お金がそれなりにもらえるルーティン・ワークは、日々の生活を維持するのに大事ではあるけれど、それだけではいずれモチベーションが底をついてしまう。

そこで、日々のルーティン・ワークを守りながらも、自分にとってチャレンジングな、でも面白くてやりがいのある仕事(ギャラは二の次)をうまく混ぜていくと、全体的なモチベーションを維持しやすいのだという。なるほどな、と思った。言われてみれば、自分も無意識のうちに、ハードルの高い仕事(企画から全部手がける書籍とか)とそれ以外の仕事を組み合わせて、自分の中でバランスを取っていた気がする。

そういえばこの間、クライアントの担当さんから「他のライターさんが、ギャラが安いからか取材や原稿も手抜き気味な感じで‥‥」と愚痴をこぼされたのだが、ギャラが安いからといって手を抜くのは論外。でも、だからってギャラが安すぎてもいいわけがない。実際安すぎるし(苦笑)。

やりがいはものすごく大事だけど、お金もそれなりに大事だよ、というシンプルな結論であった。

カメライターについての考察

最近、といってもここ一、二年くらいなのだが、初対面の人から仕事について聞かれて、「基本的には編集者兼ライターで、必要に応じて写真も撮ってます」と答えると、「ああ、カメライターなんですね」と言い放たれることが時々ある。

「カメライター」という言葉自体、微妙な造語だなと思うのだが、その使われ方も結構ネガティブというか、「写真と文章を両方できると売り込んで、安く仕事を取ってきてる、どっちつかずの連中」みたいなニュアンスの蔑称として使われている場合が多いように思う。特に同じ業界の人たちから。

僕自身に関して言えば、写真が仕事の範疇に入ってきたのは本当にたまたまだった。最初のガチな仕事が自分の初の単著に使う写真の撮影で、それも他に誰にも頼めなかったから(ラダックに一年半も住んでくれる人なんていない、笑)というだけのこと。その一回こっきりで終わらずに撮影や写真の貸し出しの依頼が続くようになるとは、想像もしていなかった。

文章についても、写真についても、自分の能力はどちらもまだまだだということははっきり自覚しているけれど、文章だけ、あるいは写真だけでも、仕事として依頼されれば、お金を受け取るのに恥ずかしくない結果を残す自信は、それなりにある。なければプロとは名乗らない。あと、少なくとも「写真と文章の合わせ技にできますから人件費をコストダウンできますよ」といったこすっからい売り込みは、僕は一度もしたことがない。もらえるなら倍もらうか、撮影は信頼できるカメラマンさんに依頼する。

実力のあるフォトグラファーの方々は、自分自身で語るに足る言葉を持っている。実力のあるライターさんたちは、何が大切かを見抜く目を持っているから、ペンをカメラに持ち替えてもそれを捉えられる。個人的には、「カメライター」という言葉自体、そのうちそういうポジションの人が当たり前になりすぎて使われなくなると思っているし、「カメライター」をよろず屋とみなしていた人も消えていくだろうと思っている。

要は、世間からどんな呼ばれ方をされようが、結果を出せばいいだけのことだ。