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本の企画、持ち込む側と受け取る側

一昨日の「旅の本づくり」をテーマにしたトークイベントの時、自分の作りたい本の企画書をわざわざ用意して、僕に相談しに来た人が何組もいた。実際、すでにいくつかの出版社に持ち込んだ人たちもいたのだが、「あなたの代わりに、かわいいタレントの女の子にレポートさせたら?」とか、「100万円持ってきたら、自費出版扱いで作ってあげますよ」とか、いろんなことを言われているという。

僕自身、自分の本の企画を出版社に持ち込んだ回数はかなりの数になるが、ひどい対応をされて嫌な思いをした割合の方が、圧倒的に多い。出版社の知名度や規模に関係なく、編集者にもいろんな人がいる。はっきり言うと、人格的にも能力的にも、ピンからキリまでいる。写真がメインの企画なのに、最初から最後まで一人で適当にしゃべり続けて、一枚も写真を見ようとしなかった人。アポイントを仮病でドタキャンしてリスケもしなかった人。電話とメールで丁寧に打診したのに受領確認の返信すら寄こさない人などは、星の数ほどいる。

本を出したいと考える人の中にも、名前を売りたいとか、ハクをつけたいとか、商売に利用したいとか、そういう邪な動機の人もいるとは思う。企画自体が致命的な弱点を抱えている場合もあるだろう。ただ、自分の本を作りたいと出版社に企画を持ち込む人の多くが、どれだけの熱意と思い入れを持って、勇気を振り絞って門を叩いているか。僕にはその気持ちが、痛すぎるほどよくわかるのだ。

だから、出版社側の編集者は、熱意と思い入れと勇気を持って門を叩いてきた人に対して、きちんと誠意を持って対応すべきだと思う。もちろん、企画に弱点があれば、ばしばし指摘してしまっていい。本にするのが難しければ、正直にそう伝えるべきだ。でも、本の企画を持ち込んだ人の熱意や思い入れを上から目線で嘲笑ったり、無責任な言動で傷つけたり踏みにじったり、あるいは企画の打診そのものを無視したりするようなことは、絶対にしてはならない。それは編集者云々以前に、社会人として、人として、当たり前のことだ。

旅は人生のすべてではない

昨日はいろいろ、詰め込みすぎて、がんばりすぎた。午前中のうちに税務署で確定申告を終わらせ、午後は自宅で連絡業務に振り回され、吉祥寺で名刺を追加発注し、夕方から高円寺で「旅の本作り」をテーマにしたトークイベント。終了後から深夜過ぎまで、高円寺のバーで「旅人BAR」のホスト役。どうにかすべて無事に終えられて、ほっとした。

昨日のトークイベントやその後のBARに来ていた人の多くは、本当に熱心で、自分の旅にまつわる本を作りたいと真剣に考えている人たちだった。実際にしっかり作り込んだ企画書や資料を持参して、僕に意見を求めてきた方も何組もいた。そういう真剣な思いを持っている人たちが世の中にまだこんなにいるということが、新鮮でもあったし、嬉しくもあった。

自分の旅を形にしたい。思いを、感動を人に伝えたい。そう考えるのは、旅が好きな人にとって自然なことだと思う。ただ、旅を本という形にすることが自分にとって最大の目標で、それがすべてと思い詰めすぎるのは、あまりよくないかもしれない、とも思う。

旅は人生のすべてではない。人間にとって旅よりも大切なものは、たぶんこの世界にたくさんある。そういうものの見方に気づいて、自分の考えを客観的に見直すからこそ、あらためて気づける旅の価値や魅力もあるはずだ。

いろいろなものの価値を相対的に感じ取り、俯瞰的に見直すこと。僕自身、考え込みすぎて狭い見方に陥らないように、そう心がけようと思っている。

初期化して再構築

ここ数年、仕事の隙間を縫うようにして、アラスカに少しずつ通っている。あと3週間ほどしたらまた、彼の地へと飛ぶ予定だ。

「ラダックの次は、アラスカをやるんですか?」という風によく訊かれる。そうである部分もなくはないけど、その通りとも言えない。まず、ラダックとはこれからも、ライフワークというか、自分の担うべき役割を果たすために、ずっと関わり続けるつもりでいる。アラスカでの取材は、ラダックとは別の基軸に位置付けて、並行する形で取り組んでいる。ただ、ラダックでこれまでやってきたやり方と、アラスカでこれからやろうとしているやり方とは、自分の中では、かなり違う。まったく別のアプローチを試みていると言ってもいいかもしれない。

その違いは、目先のテクニックやノウハウではなく……自分以外の他者、周囲の世界そのものに対する、向き合い方や考え方の違いなのだと思う。ラダックでの日々も含めて、今まで生きてきた中で積み重ねてきたものを、ばっさりと全部初期化して、ゼロから再構築していくような……。そうして初期化して再構築した結果が、これまでの自分と全然違うものになるのか、それとも同じ答えに行き着くのか、まだわからない。本当に答えが出るのかどうかも、わからない。再構築しきれずに、ボロボロと崩れてしまうのかもしれない。

答えの見えない、闇の中へ。怖いし、不安だし、迷いもある。でも、やっぱり、進むしかないんだろうな。

地味で単調でしんどい仕事

冷たいみぞれが降り続いた日。終日、部屋にこもって、ロングインタビューの原稿を書く。

最近、ライターが一部でタレント化・読モ化しつつあるという話をWeb上でいくつか読んだのだが、ライターになることに憧れているという人は、今の世の中に、それなりにいるのだろうか。

ライターや編集者の仕事は、ほとんどの場合、地味で単調でしんどい仕事だ。その上、昔よりも報酬の相場は下がっている。ライター志望の人が憧れるのは、たぶん、一部の人が前面に出している、タレント的・読モ的な側面なのだろう。僕はそういうのは、正直言って苦手だ。一人で陰でコツコツ書いている方がいい。

僕の場合、二十代初めの頃、長旅の旅費稼ぎのために始めた出版社での編集アシスタントの仕事が、思いのほか性に合っていたから、今の道を辿る結果になったのだと思う。当時のバイトも、地味で単調でしんどかった。僕はたぶん、相当に物好きな部類の人間なのだろう。

そんなわけで、今日も一日、地味で単調でしんどくて、それでも好きな仕事を、がんばってみた。

相応の金額

出版不況もここまで長引く(というか、もう回復はしないと思う)と、何かにつけて辛気臭い話が多くなる。予算が減るだの、人手を減らすだの、まあ、いろいろ。

雑誌の世界は、一部の大手出版社を除けば、しばらく前から内製化が進んでいる。ライターやカメラマンの代わりに、編集者が自ら取材に行ってデジカメで写真も撮る、とか。確かにそうすれば予算は節約できるのだが、編集者にかかる負担は数倍になり、文章や写真の品質も維持できなくなる。結果、編集部は疲弊し、雑誌の品質も売上も落ち、さらに予算が削られ……という悪循環を辿っている雑誌は、今の世の中、少なくないと思う。旅行用ガイドブックなど、ライターやカメラマンが複数関わる書籍も、たぶん似たような状況だろう。

開高健さんが生前にエッセイで、「いいものを作るのに必要なのは、たっぷりの時間と手間と、必要なだけの金だ」という意味のことを書いていたと記憶しているのだけれど、確かに、本や雑誌を作るのに、お金はとても重要だ。湯水のように注ぎ込めばいいわけではないが、必要なところに適正な金額を使えないと、関わる人々の心意気だけではどうにもできない状況が必ず生じる。必要とされるスキルを持っているスタッフには、それ相応の金額を。世の中、そういうバランス感覚に戻ってほしいな、と思う。