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文学賞

俳優の水嶋ヒロが書いた小説が、ポプラ社小説大賞を受賞したという。このニュースでちょっと驚いたのは、賞金が二千万円という浮世離れした文学賞が、日本に存在していたということだ。

二千万円といえば、単行本を十万部かそこら売らないと回収できない金額だと思うが、それを新人作家育成のためにポンと払ってしまうとは、太っ腹な出版社だな‥‥と思っていたら、大賞を受賞したのは、第一回と今回だけ。水嶋ヒロは今回の賞金を辞退したそうだし、来年から賞金は十分の一の二百万円になるという(それでも芥川賞や直木賞の倍の金額だが)。あれこれ憶測が飛び交うのも無理はないけど、まあ、ポプラ社はポプラ社でいろいろ大変なのだろう。

個人的には、文学賞でハクをつけてデビューなんてことはせずに、普通に幻冬舎あたりに持ち込んで本を出してしまった方がよかったんじゃないかと思う。誰が書いた作品であろうと、結局、それに対する本当の評価を下すのは読者なのだし、たとえそこそこの部数しか売れなかったとしても、読んだ人の心にしっかりと残る作品であれば、それはそれで価値のあることだから。

そういう自分も、遠い昔、ノンフィクションの文学賞に応募したことがあったなあ。あの頃は‥‥本っっ当にヘタクソだった(苦笑)。どうにかしていっぱしの物書きになりたくて、でも何のチャンスも見つけられなくて、藁をもすがる思いで、あがいていたっけ。

新しいパダワン

夜、ひさびさに晩酌をしにリトスタへ行く。お店には、昨日から新しいパダワン、つまり見習いスタッフの女の子が加わっていた。緊張した面持ちながらも、一つひとつの仕事——コップをそっと机に置いたり、おしぼりが入っていた袋を回収したり、といったことを慎重にこなしていた。

ミヤザキ店長によると、彼女は「リトルスターレストランのつくりかた。」を読んで、このお店で働こうと思い立って上京してきたのだという。まだリトスタ以外の仕事も決まっていなければ、住む場所すら探している最中というくらいだから、相当な肝の据わりようというか、覚悟というか。そもそも、本を読んで興味を持ったからといって、それでスタッフとして採用されるとは限らないわけだし。

もちろん、彼女が上京してリトスタで働こうと決めたのには、ほかにいくつもの理由があるのだろう。でも、自分が書いた本が他の人の人生に入り込んで、その人の背中をポンと押しているのかと思うと、何だか不思議な気分だ。と同時に、身の引き締まる思いもする。本作りの仕事では、けっして手を抜いたりできないな、と。

新しいパダワンリトスタになじんでいけるかどうかはまだわからないけれど、あのお店で働く日々は、きっと彼女にとってかけがえのない経験になると思う。少なくとも、時給250万円でドミノ・ピザで働くよりは。

ポール・オースター「オラクル・ナイト」

長編小説の醍醐味は、物語のめくるめく奔流に身を任せ、時を忘れて読み耽ることにあると思う。僕がこれまでに読んだポール・オースターの小説——「ガラスの街」をはじめとするニューヨーク三部作や「リヴァイアサン」「ミスター・ヴァーティゴ」「幻影の書」といった作品群は、僕を心ゆくまで耽溺させてくれた。ところが、先日発売された「オラクル・ナイト」は、それらとはちょっと趣向の違う作品だった。

主人公シドニー・オアの職業は、やっぱりというか、またしてもというか、作家だ。彼が奇妙な文具店で見つけた青いノートに文章を書きはじめることで、いくつもの物語が動き出す。シドニーと妻のグレースと友人のジョン・トラウズとをめぐる物語。青いノートに綴られた、それまでの人生を捨てて行方をくらました男と、電話帳の図書館をめぐる物語。その物語の中で主人公に渡される、ある作家が遺した小説「オラクル・ナイト」。タイムトラベルをテーマにしてシドニーが書いた映画の脚本。ジョンが若い頃に書いた短篇「骨の帝国」——。こうした「物語の中の物語」を組み込むのはオースターが得意とするところだが、この本ではそれがさらに多層化していて、途中に注釈の形で何度も挿入される補足エピソードとあいまって、複雑な入れ子構造になっている。

そしてこれらのエピソードの大半は、意図的に結末を迎えることなく途切れてしまう。文具店の店主M・R・チャンの正体も、ポルトガル製の青いノートの謎も、答えを与えられない。シドニーとグレースを襲った一連の悲劇から現在へ至るまでの道程すら、途中でふっつりと途絶えてしまう。言葉は過去の出来事を記録するだけでなく、未来の出来事を引き起こす力も持っている。オースターはそのことを伝えたいがために、このように手の込んだ構成を選んだのかもしれない。それでいて全体が破綻することなくまとめあげられているのは、彼の技量があればこそだろう。

だが、正直に言うと、ちょっと読みづらかった。流れに引き込まれかけたところで、長い注釈でばっさりと寸断されたり、エピソードが途切れてしまったりするので、いいところで足元の梯子をポンと外されてしまうような違和感をたびたび味わうことになった。読者をグイグイ引き込む物語性という点では、この作品は弱いと思う。あと、シドニーとグレースとジョンをめぐるエピソードが、かなり序盤の段階から結末が透けて見えてしまっていて、終盤の展開が予想の範囲内だったことも、拍子抜けした要因かもしれない。そういったことも含めてオースターの計算のうちだったとすれば、それはそれでたいしたものだが。

次に邦訳される作品は、心ゆくまで物語に耽溺できるような、長編小説ならではの醍醐味を味わえるものだったらいいな、と思う。

三人目の子供

昼、リトスタでランチを食べながら、相談事を受ける。相手は、以前創刊に関わった雑誌の編集部に在籍していた女性で、後輩といえば後輩にあたる。今では結婚して二児の母となったが、その一方で、フリーランスでの編集の仕事も続けている。

相談の内容は、彼女がこれから作りたいと思っている本の企画について。どの版元に、どのような形で持ち込めば、出版にまでこぎ着けることができるか? 正直、僕には偉そうにアドバイスできるほどの経験も実力もないのだが、自分が本を出した時の経緯などをかいつまんで説明した。

「‥‥どうせこの仕事をしているのなら、自分が本当に作りたいと思える本を作りたくて!」

彼女とはずいぶん長い付き合いになるが、今日ほど目をきらきらと輝かせて、楽しそうに自分の企画の話をしていたのを見たのは初めてかもしれない。自分が本当に作りたいと思える本を作る。僕たちの仕事は、それが始まりであり、すべてでもある。ともすれば、ルーティンワークをこなすことに汲々としてしまいがちなこの業界で、かつての仲間がそんなみずみずしい気持で本作りに取り組もうとしているのを見るのは、僕としてもうれしかった。

彼女の思いが結実した本ができあがった時、きっとそれは、彼女にとって三人目の子供といっていいほどの、かけがえのない存在になると思う。

旅音「インドホリック」

ラダックから日本に帰ってきた時、旅音の新刊「インドホリック」が、僕のいない間に発売されていたことを知った。しかも、「ラダックの風息」と同じ出版社から。そこから不思議な縁がつながって、11月3日に開催するトークイベントのゲストとしてお招きすることになったのだが、それはまた別の話。

旅音とは鎌倉在住のご夫婦で、ご主人の林澄里さんが写真とWebを、奥さんの加奈子さんが文章を担当されている。中南米を一年かけて旅した日々を描いた前作「中南米スイッチ」もそうだったが、この「インドホリック」も、瀟酒でとても美しい本だ。鮮やかな色彩のインドの情景を、みずみずしい感性で切り取った写真の数々。インド各地を約半年かけて旅した日々を綴る文章は、感動した出来事があった時も、困ったトラブルに遭遇した時も、きちんと抑制が効いていて、ニュートラルな視線に好感が持てる。

旅行記というと、自分の行為に陶酔してしまったり、妙にカッコつけてしまったり、あるいは面白おかしくウケを狙ったりしてしまいがちだが、旅音による二冊の本は、本当に自然体で、いい案配のバランス感覚でまとめられている。それはたぶん、彼ら自身が、旅というものに対する自分たちなりのスタンスを確立しているからだろう。

長い旅を経験した人の中には、疲弊して擦り切れてしまったり、何かが変質してしまう人も少なからずいる。でも、旅音の二人は、異国に対するフレッシュな好奇心と敬意を抱きながら、実にのびのびと旅を楽しんでいる。それでいて、自分たちらしさも忘れていない。「旅の達人」といった類の人たちとは違う。「旅を楽しむことがうまい人たち」なのだと思う。そして、そういう人たちが作った本というのは、読んでいても気分がいい。

できれば、せめてあと1折(16ページ)はページ数に余裕を持たせて、その分、見開きや1ページ断ち落としでズバッとレイアウトされた写真をもっと見たかった‥‥というのは、贅沢すぎる注文か。フルカラーの本でこれ以上ページ数を増やすのは、採算面でかなり厳しくなるのはわかっているけれど。