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編集者の資質

終日、部屋で仕事。本の編集作業も、いよいよ本格的に忙しくなってきた。

編集の仕事を志してから、かれこれ二十年近くになる。地味で、単調で、せわしない作業のくりかえしだけど、何もないところから人の心を動かすものを作り出していくこの仕事が、僕はとても気に入っている。

ただ、自分が編集者としての資質を持ち合わせているかというと‥‥どうかな、と思う。

僕の知人には、周囲の誰もが認める優秀な編集者の方々が、何人もいる。その方々の仕事ぶりを見ていると、卓越したセンスとか、細部へのこだわりとか、疲れを知らない体力とか(苦笑)、そういった能力よりも、編集者にとって一番大切な資質は、周囲の人々とのコミュニケーション能力なのだと、つくづく思い知らされる。人間的に慕われている編集者さんは、間違いなくいい仕事を積み重ねている。

その点では、自分は本当に未熟だし、たとえば雑誌の編集長のように、大勢の人を取りまとめてチームとして動かしていく役割にはまったく向いてないと思う。どちらかというと「使う」よりも「使われる」立場の方がしっくりくるし、あるいは自分でできることはなるべく自分でやってしまう——企画・執筆・撮影・編集といったあたり——方が、力を発揮できるような気もする。

まあ、自分勝手なんだな、要するに(苦笑)。

風の旅行社「風通信」No.42

風の旅行社が年に三回刊行している無料の情報誌「風通信」に、「もうひとつの居場所、ラダック」と題した4ページのフォトエッセイを寄稿しました。表紙の写真と目次の写真も提供しています。エッセイは完全書き下ろし。写真は「ラダックの風息」に掲載していないものを中心に選んでいます。

風通信」は、お問い合わせ用メールフォーム、または電話(東京0120-987-553、大阪0120-987-803)で風の旅行社に申し込むと、無料で送ってもらえるそうです。数に限りがあるそうなので、お早めにどうぞ。発送開始時期は、4月22日(金)頃の予定です。

台割を作る

終日、部屋で仕事。懸案の本の企画を実現させるため、台割の検討を進める。

台割とは、本のどのページにどんな内容が入るのか、最初から最後まで割り当てる、本全体の設計図のようなものだ。普通は、ある程度原稿を書き進めてから台割の策定に入るのだが、今回はちょっと特殊な事情があって、既存のフォーマットにできるだけ近い形に構成をあてはめた案も用意しておく必要が出てきた。なので、「1ページ目は総扉で、2、3ページ目はグラビアのイントロダクションで‥‥」といった具合に、ひたすらゴリゴリと検討を重ねていく。

こういう台割を作る作業、僕は大好きだ。頭の中で好きなように本のカタチを思い浮かべられるのは、編集の仕事の醍醐味の一つなんじゃないかと思う。考えているうちにどんどん楽しくなって、時間が過ぎるのを忘れる。

気がつけば、すっかり夜だった。

強く思う気持

今日は一日中、メールやら電話やらでの連絡業務に追われた。いろいろな案件が、同時進行で進んでいる。

その中でも、ここまで順調に準備が進んでいたものの、震災の影響で頓挫している企画がある。取材を伴うこともあって、ちょっと難しい判断を迫られているのだが、担当編集者さんとやりとりしている時、こんな風に書かれていたメールにぐっときた。

「山本さんが、“こんな本があったらいい! こういうのを作りたい!”と強く思う気持が、実現への一番の力になります。“欲しいものを作る”というのが、モノ作りの原点です」

そうなのだ。青臭い言い方かもしれないけど、情熱を注ぎ込んで、やり遂げてやろうと強く思う気持こそが、今のような困難な状況を打開する一番の原動力なのだと思う。自分が提案した企画に対して、こんな風に侠気を見せて協力してもらえることほど、心強いことはない。

燃えてきた。必ず、いい本にしてみせる。

ペン先の小さな神様

物書きという仕事に携わるようになって以来、長短合わせて、それなりにたくさんの文章を書いてきた。納得のいく出来の文章もあれば、いろいろな理由で悔いの残る文章もある。でも、本当の意味で自分の中にあるすべての力——記憶とか感情とか、何もかも含めて——を出し切ったと思えたのは、「ラダックの風息」を書いた時だったと思う。

あの本の草稿は、2008年の春から秋までの半年間をかけて書き上げた。当時はまだラダックでの現地取材を続けていたから、草稿の大半を書いたのもラダック。自分のパソコンは持って行かなかったので、取材の合間を縫って、小さな紙のノートに端から端までびっしりと、ページが真っ黒になるまでひたすら書き続けた。

あの文章を書いていた時の感覚は、僕がそれまで経験したことのないものだった。馴染みのカフェの席に坐り、ノートを広げ、ペンを握り、ページを見つめる。すると、周囲の視界が急に狭くなって、物音も小さくなる。頭の内側がじーんと痺れたようになり、ペンを持つ手が知らぬ間に動き、文字を書き連ねていく。まるで、ペン先に米粒大ほどの小さな神様が坐っていて、次はああ書け、こう書け、と指図しているかのように。

ラダックの風息」を書き上げた後、ペン先に小さな神様がちょこんと降りてきたことは、一度もなかった。どこがどう違うのか、僕自身にもわからない。でも、つい最近になって「もしかすると、あの神様が降りてくるかもしれない」と思える題材が見つかったような気がしている。まだどうなるか自分でもわからないけれど、また、あの時のような感覚で文章が書けるかもしれない。

大切だと思えること。伝えたいこと。それを、一心不乱に書く。