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赤いボールペン

終日、部屋で仕事。昼間のうちは、電話の打ち合わせに時間を取られてしまった。晩飯にパスタを茹でて食べてから、本格的にゲラチェックを開始。

赤いゲルインキのボールペンを手に、ゲラの上にかがみ込むと、かちっ、と編集者モードのスイッチが入るような気がする。編集者モードというのは‥‥細かいところまでちまちまこだわるモード、という感じだろうか(笑)。そういう偏執的なところがある人じゃないと、この地味で単調な仕事には向いていないような気がする。

ま、僕の場合、思いもよらないところが、ぼそっ、と不注意で抜けてたりすることがよくあるので、あんまり向いているとは言えないのかもしれない(笑)。

作り手は作り手に嫉妬する

以前、西村佳哲さんにインタビューをさせていただいた時、次のような話を聞いたことがある。

「たとえば、出来のいい映画を観て“くやしい”と感じる人は、モノ作りに携わっている人ですね。そういう人は、作る側に視点が回っていくものなんですよ」

確かに、それは当たっていると思う。自分を例に挙げるのはおこがましいけど、面白い本を読み終わった後は、無性に原稿を書きたい気分になったりする。先日、たかしまてつをさんの個展にお邪魔した時は、「こんな空間で、壁一面にバーンとラダックの写真を展示したら、気持いいだろうなあ‥‥」と妄想したりもした(笑)。あと、逆の立場では、ある飲み会の席で、同業者の人から「ヤマタカさん、ぼかぁ、あんたに嫉妬してるんですよ!」と、面と向かれて言われたこともある。別に、僕はそこまでの人物じゃないんだけど‥‥(苦笑)。

作り手は作り手に嫉妬する。それはとても健全な反応だし、互いにそれを糧にして新しいものを作り上げていければ、素晴らしいことだ。ただ、他の人の作品に刺激を受けて、「よーし、自分も!」と決意しても、相手の後追いで似たようなものを作るだけでは、単に模倣をしているにすぎず、オリジナルはけっして越えられない。作るなら、自分自身のアイデアと力で勝負しなければ、意味がない。

単なる後追いで終わるか、自分の道を見出すか。本物の作り手になれるかどうかは、そこが分かれ目だと思う。

自分の本を出す方法

仕事柄、初対面の人からよく、「自分で書いた本を出してみたいんですけど、どうすればいいですか?」といったことを訊かれる。

利益も何も考えずにただ本を出したいだけなら、自費出版をすればいい。しかし、ある程度全国各地で販売されるような本を、ちゃんとした出版社から出したいというのであれば、ハードルはかなり上がる。僕自身、別に売れっ子でもないので偉そうなことは言えないが、自分自身で企画の持ち込みなどをしてきた経験から、思いつくことを書いてみる。

まず、誰もが認めるような素晴らしい才能の持ち主なら、それなりのアクションさえしていれば、遅かれ早かれ認められるようになる。世の中には、そういうまぎれもない天才が確かにいる。ただ、そんな稀有な才能の持ち主は、本当にほんのひと握りしかいない。

自分の本が出せなくて悩んでいる人の多くは、持って生まれた才能だけで勝負しようとしているのではないだろうか。確かにその人には、ある程度の才能があるのかもしれない。が、並み居るライバルを押しのけて突き抜けられるほどの才能とは、編集者の目には映っていないのだろう。

では、僕のように(苦笑)イマイチパッとしない能力しか持ち合わせていない人は、どうすればいいのか?

それは、才能の前に、企画で勝負すること。

「これだ!」と閃いたアイデアを、あらゆる方向から検討し、調査で理屈を補強し、周到に準備を重ねていく。そうして一分の隙もないくらいに仕上げた企画を見せて、「自分はこういう本を作りたいんです!」と提案する。そういう理詰めのアプローチの方が、漠然と「本を出したいんです」と持ちかけるより、何倍も成功率が高くなる。小説のように書き上げた原稿を持ち込む場合でも、土台となるアイデアが大切なことは変わりない。

今年初め、ある出版社に企画の持ち込みに行った時、「こんな風にちゃんとした企画書を持ってくる人、なかなかいないんですよ」と言われて驚いたことがある。当たり前といえば当たり前のことかもしれないけど、本当に心の底から作りたいと思える本があるなら、まずはその企画を徹底的に鍛え上げて、武器にすることを考えるべきだと思う。

「黒子」からの一歩

終日、部屋で仕事。はかどっているとはいえないが、それでも、少しずつ前には進んでいる、と思いたい‥‥。

一昨日、昨日と書いてきた、仕事にまつわる断想の続き。

僕は雑誌の編集者としてキャリアを始め、やがて、自分でもライターとして、いくつかの雑誌で記事を書くようになった。そうした記事のほとんどは、取材やインタビューを基にしたもの。僕は、取材する題材や人々の魅力を最大限に引き出す「黒子」としての役割に徹していた。それは、編集者の頃からのスタンスの延長線上にあったのだとも思うし、そのことに対して一種の職人的な喜びを感じてもいた。

ただ、キャリアを重ねていくうちに、僕の中には、もやもやした感情が次第に蓄積されていった。燦然と輝きを放つ魅力的な人にインタビューをして記事を書いたとしても、それは結局、その人の魅力に頼って、おすそわけをもらっているだけなのではないか。僕自身の中にある思いは、何も伝えられていないのではないか、と。

「黒子」に徹した職人的なライターは(たぶん)常に必要とされているし、僕自身、今もそういう立場での仕事を続けている。そうしなければ、正直、食っていけない(苦笑)。でも、そんな「黒子」としての立場から一歩踏み出して、完全に自分自身を晒して「ラダックの風息」を書いた時、僕の中にあったもやもやした感情は消えてなくなった。たとえ非力でも、自分自身の思いと言葉で勝負する。それが読者に届いた時の喜びは、「黒子」に徹していた時とは比べものにならなかった。

これからずっとそういう仕事を積み重ねていければ理想的だけど、世の中、そんなには甘くない(苦笑)。でも、自分が伝えたいことは何なのか、それは自分にとって何なのか、常に自問自答しながら、心の中にある目標を忘れずにやっていければ、と思う。

「黒子」としての編集者

終日、部屋で仕事。電話での長時間の打ち合わせを何件かしているうちに、声がちょっと枯れた(苦笑)。今日はあまり作業時間が取れなかったな‥‥。

昨日、「編集者の資質」というエントリーを書いたら、知人の(誰もが認める優秀な)編集者さんから、「編集者の資質って、自分が面白いと信じたことに人を巻き込むことですかね」というツイートをいただいた。

確かに、それは的を射ている。著者、フォトグラファー、イラストレーター、デザイナーなど、本作りに関わるあらゆる業種の人たちを巻き込んで、自分が信じたゴールに向かって突き進んでいく。それをやり遂げる情熱がなければ、本当の意味での編集者の仕事はできないだろう。

ただ、そうして本なり雑誌なりを作り上げても、それはその編集者の「作品」ではない。何かを生み出したのは著者をはじめとするクリエイティブな職種のスタッフで、編集者の役割は、基本的には「黒子」なのだ。中にはその範疇を飛び越えて著者よりも前面に出てくる編集者もいるが、その是非はともかく、個人的には、いかに「黒子」に徹して他のスタッフに活き活きと動いてもらえるように努力するかが、編集者の仕事のキモなのではないかと思う。

で、編集者としての自分にそれができているかというと‥‥できてないなあ‥‥(遠い目)。